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ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

『シリア・モナムール』と『FAKE』を見た。(ネタバレ過敏なひとは読まない方がいいかも)

7月1日映画の日はドキュメンタリーを2本見ました。『シリア・モナムール』と『FAKE』。どちらも愛についての物語として見れて、すごくよかった。


亡命し、内戦下のシリアには戻れず、パリでむなしく苦悩しながら過ごす映画作家オサーマ・モハンメドと、自由のために祖国シリアでかすかに闘い続け、カメラを持つようになった女シマヴ(クルド語で「銀の水」という意味)との、映像と文字をつかったやり取り。いちども会ったことのないふたりが、恋愛のような交歓を、SNSで映像とテキストを往復させることで行っていく。ふたりの交流はクリスマスに始まった。シマヴはオサーマのことをハヴァロ(「友」の意)と呼び、シリアでどんな映像を撮ったら良いのだろうと突然メッセージを送ってきたのだ。

パリはいつも濡れていて、日々はエスカレーターのステップのようにいたずらに過ぎていく。その一方、オサーマのもとにシマヴが送ってくる映像データには、痛みからか空腹からかそれとも寂しさからか鳴き声をあげる負傷した猫や、屍になった馬、昨日まで生きていた子供たちの亡骸、そして亡き父の墓に花を手向け父と対話する幼い少年などという、極限の状態が生々しく記録されている。しかし映像には、映画を見て喜ぶ子供たちが映ったりもしていて、そこにあるのは必ずしも悲劇だけではない。
祖国を離れ孤独に過ごしていたオサーマはやがて、シマヴのことばに勇気づけられ、『シリア・モナムール』を編むことを決める。


「まるで映画のようだ」と言われる現代の戦争やテロの映像はインターネットに氾濫している。圧倒的な現実のまえでドラマは無力だとも言われる。けれど、この作品には悲惨な現実に対抗しうる映画の力がみなぎっていたように思う。ひとはカメラを持てば上官に指示を出し言動を演出することもできる。もっと蹴ってください、もっと殴ってください……。下士官の声に促された上官は、意気揚々と「非国民」を暴行する。カメラには、軍隊の上下関係をも反転させる力がある。
動画サイトに溢れかえって絡まりあった悲惨な戦争の映像たちも、編み方次第で愛を紡ぐことになる。1枚のスクリーンのうえにパリとシリアの景色が折り重ねられていく。遠く離れた男女が、互いに見た景色(見れなかった景色)を共有することでかすかに救われていく物語……。
しょうじき、この映画はすさまじすぎて、具体的なことを書くことがためらわれてしまうのだけれど、僕はいつもためらっている間に大切なことを忘れてしまうので少しだけ書いておきました。
負傷した女が治療中に行う自撮りは、めちゃくちゃ官能的だった。
少年と壊れた街のなかを歩くシーン、「その瞬間」を待ち望んでしまっている自分に気づいて嫌んなった。


『FAKE』についてはさっき書いたので割愛。ただやっぱり愛についての物語だ、って書いたのでその点について少し書き足す。食事を食べるまえに佐村河内がある飲み物を飲むところ、本当におかしくて笑える。なみなみ入ったコップを置いて、箸を持ち飯を食った佐村河内はちゃんと「おいしい」と言う。このセリフが『クリーピー』の食卓シーンと響き合う(まったく逆の印象がもたらされるのだけれど)。嵐山を歩くふたり。ずっと寄り添って歩き、橋の上で川の先を指差して佐村河内が何か言う場面は『岸辺の旅』っぽいとか言ったら、さすがにちょっと違うか。
子供のいない夫婦の風景って、寂しくてほのかに温かいなと思う。
あとこれはもう完全な脱線だけれど、外国人ジャーナリストと通訳の男性と、妻で手話担当のカオリさんと佐村河内のやり取りは白眉のシーンだった。通訳の男性が少し感情高ぶってジャーナリストの言葉を待たずに佐村河内を詰めていく一方で、カオリさんはずっと手話という「通訳役」に徹している。この対比は、まさに「FAKE」がつくられていくさまをその対照を見せることで浮き彫りにしていくようだった。対話は本当にむつかしい。
あとあと、神山典士のこの記事「『残酷なるかな、森達也』- 神山典士(ノンフィクション作家) (1/2)」には驚いた。何を見ていたんだろう。誰があそこで真実を希求しただろうか。真実以上に大切なのは信じることだろう。誰も真実に興味ないし真実なんて見つからない、というかないことのがおおいんじゃないでしょうか。
あとあとあと、出演依頼に来たマスコミの4人が「神妙な面持ち」つくってるとこ笑っちゃうよね。この映画見て、彼らが自分らの顔見たら愕然とするとだろうな、「嘘ついてるのバレバレやん」って。