ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

森達也『FAKE』感想文(ネタバレあるっぽい)

煙草を吸うため、開け放たれた窓。カメラがベランダに立った瞬間、マンションからほど近くを走る列車が画面を横切って行く。のちにわかるが、ふだん閉めきられたこの薄暗い部屋にも、線路のうえを流れる列車の音は侵入してくる。しかしその男にその音は聞こえないだろう。でも、まだ、「だろう」だ。
もしかしたら聞こえているかもしれない、というかこっちは、本当は聞こえてるんでしょ? くらいのスタンス。彼の耳は本当は聞こえているんじゃないか? 僕はそんな疑いを持ちながら、スクリーンを注意深く見る。玄関チャイムが鳴るたび、彼のリアクションに目を向けてしまう。
僕はまだ、佐村河内のことを信用していない。していなかった。
彼のことをまったく信じていなかったのだと知るのは、もう少し先のことだ。



佐村河内に疑いの視線を向ける僕とは対照的に、『FAKE』には、ハナっから彼のことを信じて疑わない人物がふたり、出ずっぱりである。妻のカオリさんと、監督の森達也だ。
カオリさんは、佐村河内がゴーストライター・新垣と「共作」をしていたことを、ずっと知らなかったのだと言う。佐村河内は、世間に事実を隠しながら同時に、もっとも身近にいる彼女をも欺いていたのだ。それでもカオリさんは、ずっと佐村河内のそばにいる。なぜか、と問われれば彼女は「そうしたいから」だと、平然と答える。


森監督と佐村河内のやり取りは、ほとんどつねにカオリさんの手話を介して行われる。森が「愛しているんですか?」と問えば、カオリさんはその問いを自ら復唱しながら手話で夫に伝える。佐村河内が「はい、はい」と言うと、森監督は間髪をいれずに「誰を?」と、まるでAV監督が「いまどこが濡れてんの~?」と聞くような感じで、いや、ここにはイヤラシさは多分ないのだけれど、あえて、聞く前からわかりきっている答えを佐村河内の口から出させるために白々しく質問する。カオリさんもその茶番にしたがい、「誰を?」と佐村河内に手話で聞き、彼は「妻を、妻を愛しています」と言う。
この時点では、この言葉は森への返答になっているのだけれど、やがてふたりは互いに感謝し合い、涙を流すだろう。

 


佐村河内と森監督が、カオリさんを介さずに会話する唯一の場所が、冒頭のベランダだ。「この部屋で煙草吸いたくなったときはどうすればいいですかね?」と森が聞くと、佐村河内は「そうなんですよ、そのことについてお話したかったんですけどね……」と待ってましたと話しだす。ふたりは一服するためにベランダに何度も出て行く。

 

佐村河内にある決断をさせようとするとき、森監督の口にする「佐村河内さんがそれするなら、僕は禁煙しますよ」という「セリフ」はすこぶる効果的だ。
事件を機に、「400人いた友人」には去られ、両親からもすべてを失わせ、日本中に後ろ指さされることとなった佐村河内にとって「僕は佐村河内さんのこと信じていますよ、信じてなきゃ撮れないですよ」という森監督の言葉は心底嬉しかっただろうし、そういう男との一服は、「上がってくる心臓」を元の位置に戻す深呼吸のために、必要不可欠だっただろう。
しかし、一服で人間は再生できない。息抜きになっても、人生を歩くための呼吸法は取り戻せない。だからいちどベランダは徹底的に閉められ、物語の舞台は、より暗く狭くなっていくだろう。とはいえ、その深海はまぶしい。うらやましいほどにまぶしい。そこでは誰がカメラを持ち、誰が映されているのか。

 




いま公開されている黒沢清『クリーピー 偽りの隣人』が佐村河内夫婦とおなじように子供のいない夫婦の話で、だから伴わせて見るとけっこうグッとくると思います。
他にも『LISTEN』という聴覚障害者による音楽の試みが記録されたアート・ドキュメンタリーが現在公開中で、こちらも音楽とは何か、作曲とは何か、という観点で撮られた作品だから、ある種『FAKE』との食い合わせがすごく良いと思います。僕は先に『LISTEN』を見ていたんだけど、『FAKE』を見たことで、前者に対する見方が変わりました。『LISTEN』は劇場内に響く環境音をも遮断させるために「耳栓」が配られるので、なかなかおもしろい体験ができると思います。