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ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

おはなし

むかしの僕は話すことが好きだった。会話も好きだったけれど、聞いてくれるひとに対してできあがったストーリーを一方的に話すのが好きだった。創作ではなくて脚色された実話を、おもしろおかしく話すのが、たぶん、得意だった。けれど、いつからか話すことがまったく下手になった。


話すのが好きだったころの僕は、何かおもしろい出来事が起こると、それをどうやってうまく話そうかと思案したものだった。時系列に沿って丁寧に描写しながら話すこともあれば、あえてオチから話して聞いてるひとの興味をひいてみようと考えたり、おもしろさのために事実をすこし曲げたりした。話がおもしろくなればよかったから、事実とズレない範囲でウソをついた。
そういう僕の話をみんなおもしろがってくれたし、いま世の中が「大喜利」ブームなように(ブームだよね?)、当時は「すべらない話」が流行っていたので、「オマエはすべらない話に出れるよ~」みたいな甘言を言ってもらえることも少なくなかった。


しかし、いつからか話が下手になった。それは、出来事が起こらなくなってしまったからだ。待っていても出来事が起こる時代は終わり、出来事を自ら起こさなくてはならない歳になってしまってからの僕は、まったくスベりっぱなしだ。


たとえば、むかしはいっしょに女の子に声がかけられない苦しみ情けなさを共有しそれを互いに笑い話に変えてった友人も、就職して僕から離れて住むようになってから、女を抱きまくった。
友人の話すさまざまな女性との成功や失敗の出来事に対して、いつまでもモテないエピソードを僕が話したところで、見劣りする僕の出来事は、ひとを惹きつけなくなった。
いや少し違うな。
僕が勝手に〈モテる/モテない〉の構図のなかで劣等感を抱いてしまって、自分に起こるエピソードを過小評価しているから、そもそも自分自身で自分の生活を人生を面白がれていないから、僕の話は面白くなくなったのだ。そもそも、〈モテる/モテない〉の前に、就職活動という通過儀礼を越えられなかった僕は、彼らと対等に話す資格を持っていないということもある。
彼らは僕に哀れみの視線を投げかけ、僕は彼らの目をまともに見れなくなった。

 

「つまらないものですが」という気分で話していたってノッてこないし、つまらないものを話すために構成を考えたりするのも割に合わないと思ってしまっている。
僕が僕をおもしろがれなくなっている。

 


おはなしさえしていればいい時期はとっくに終わっていた。おはなしするにしたって行動しなくてはならなくなった。それは理解できても、体はぜんぜん動かない。頭ではわかっちゃいるけれど、腑に落ちていない。




話が下手になってから、僕は文章を書くようになった。文章はわざわざ読みに来るひとたちへ向かっているので、あまり気を使わないで済む。リアクションに曝されずに、しこしこ書くのは気持ちがいい。
わざわざ読んでくれるひとたちは、なにかしら理由があって読んでくれているはずなので、その理由が僕にはわからなくても、読んでくれていることだけでありがたく、うれしい。