ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

「しあわせなんてただの非日常よ」

ブランキーベンジーにしか歌えない。
はじめて会ったときそんな話をした記憶がある。

 

俺がディズニーランドと聞いてまっさきに思い浮かべる歌は、大森靖子「絶対彼女」だったけれど、年上のやさしい「古き良きオタク」の兄さんにとってのそれはブランキー・ジェット・シティ「ディズニーランドへ」だった。
自分とほとんど共通点を持たない人たちと、そして尊敬できる人たちと行く夢の国は、正直緊張した。
俺が言い出しっぺなのに!


思い返せば、俺の知っているディズニーランドの風景には、むかし付き合っていた女が必ず映っている。ふたりきりで行ったり、共通の友人を交えて行ったり、ダブルデートしてみたり。ディズニーランドの思い出を語れば俺は「リア充」になってしまう。
俺はリア充じゃないよ!

 

たとえ出会ったときに共通点が皆無だったとしても、共に通過した地点を思い出にして人は友達になれる。そういえば俺にとって学校ってそういう場所だった。
インターネットは共通の何かを持つ人とかんたんに繋がれる最高のツールだけれど、何ももたない俺はずっとこのインターネットという道具を使いこなしている人を羨むばかり。誰かとつながれる連結部分をこさえることはせず、素のままの自分をまるごと受け入れてくれるテンガのような気持ちいい容器を夢想するだけだった。
テンガ使ったことないけど!



5年くらいのつきあいになる友人とはメールのやり取りを頻繁にする。このブログの文章より長い量の文字を一通に詰めこんで送りあう季節も幾たびかあった。俺はそのメールをこのブログを書くよりも長い時間をかけて打ち込んで推敲してどんな文章よりも読み込んだ。なぜなら彼女に尊敬されたかったから。誰よりも良い友人になりたかったから。
いまでも彼女とは2ヶ月に1度くらいは会って話すのだけれど、ニートになった俺は、出会ったときのような自信をなくし、いまでは彼女の話の聞き手になってしまっている。彼女は話し合うことが好きな人だから、きっといまの状態はよくない。でも、会えるときに会っておかないと、人はかんたんに疎遠になってしまうことを俺たちは短い人生のなかで経験として知っているから、毎回の会話が楽しくなくても会う。
いつか彼女はこう言った。「メールは、送る前にいくらでも考えられるし、いくらでもウソがつけるし、かっこつけられるけど、会話はそうはいかない。会話の方がその人そのものを知れる、だから私はあなたと会話がしたい」。
俺はツイッタラーだけどツイキャスをしない!




日が沈み半月が輝く。夜のディズニーランドは俺の緊張を解いた。
エレクトリカル・パレード、スカイハイ・ウィッシュ、ワンス・アポン・ア・タイム……。ディズニーランドが毎日放つ光と音のスペクタクルをたまに見ながら瞳を潤わせて黙りこくって頭の中でうっすらと考えるのは、「エモい」とは、人が発明した光や音を形容する言葉なのかもしれない、ということ。長野の星空はまだ見たことないけれど、ある島の浜辺で見た無数の星たちを思い出してもそれは「エモい」とは結びつかない。でも、いっしょに見た友人たちと思わず言葉を失い静寂をつくりあげってしまったその瞬間はエモかったような気がする。
「エモい」が光や音によってつくられるなら、黙読される文章に添えられた「エモい」という感想はウソになるんだろうか。
エモくなりたい!



闇にまぎれて両手と声をあげながら乗ったビッグサンダー・マウンテンから降りると俺は一文無しになっていた。頼れる兄さんにそっと「すみません、財布失くしました」と耳打ちすると彼は心底心配してくれた。その目を思い出すとありがたくてうれしくて泣けてしまう。
とりあえずひとりでジェットコースターのところへ戻ってキャストのお姉さんに財布を失くした旨を伝える。財布の到着を待つあいだ、ミッキーの被りものをしたまま突っ立って待っていた。情けなくって仕方がなくって、自分の鼻をひくつかせる俺がいたたまれなくなったのであろう、キャストのお姉さんは「見つかるといいですね」と言ってくれる。
見つかって本当によかった!


マウンテンの道中で空に向かって伸ばした手がようやく何かをつかんだような気がしたのに財布を失くしたせいでカリブの海賊に乗りそこねたのが痛恨の極み。俺はいつもこうなんだ。だからいつまでもこんなんなんだ。
しかしすごく楽しかったな!




みんなはきょう仕事している。さて、俺はどうしよう……。楽しかったなあ。
俺にしかうたえない歌は、俺にしかつくれない。

 

追記:恋人の映っていないディズニーランドの風景を手に入れられてうれしい。