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ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

先生の匂い

「あのころと同じ匂いがする」
先生に抱きしめられながら、僕は言う。
先生がつくってくれた僕専用の教材、あのテキストからはシナモンアップルパイのような匂いがしていた。高校生のころの僕は、あの匂いが先生の家の匂いだと思っていたのだけれど、抱きしめられてはじめてわかる。あれは、先生の匂いだったのだ。


大学生になって、故郷から出てきた僕は、数年後、先生と東京で再会した。彼女も故郷を離れて東京の高校で教員として働いているとのことだった。
久しぶりの着信に胸を高鳴らせつつもやり過ごし、自分のタイミングで掛け直した。そうして僕らは再び会った。


僕らは当然のように終電を逃し、地下にあるバーで1杯だけ飲み直した後、ホテルに行った。
マンガ喫茶でも行きますか?という僕の提案を退けたのは彼女だ。
「私、ラブホテルって行ったことないから、行ってみたいんだよね」
そう言って、一回り年上の先生は、僕の手をとってホテル街へと向かった。

 

薄汚いピンク色の壁に、キース・ヘリングの絵が飾られたホテルの一室は、先生の期待したものではなかったらしく、彼女は、とりあえずお風呂入る、と言って浴室に入る。ホテルに入る前、彼女は「あ、ホテル行くとはいっても、そういうつもりはないからね」と笑っていた。僕はその言葉に忠実に従って、いっしょにお風呂に浸かっちまおうかなんて思いつきを殺し、ダブルベッドに横たわった。
ちゃぷん、ちゃぷん、と音がする。先生は本当にお風呂に入っている。彼女は「やる気がない」のだと悟った僕は、目を腕で覆って仰向けのまま眠ることにした。「やる気がない」とは、むかし先生に何度も言われた言葉だった。


ふと目を覚ますと、ホテルに入ったときと同じ洋服をしっかり着た彼女が目を閉じて横になっている。寝ているならいいか、と思った僕は、彼女の腕の中に収まった。
「めちゃくちゃドキドキしてるね」
先生の声がする。彼女は起きていたらしい。
そりゃそうですよ、と言った僕の頭を彼女はなでてくれる。
だから僕は彼女の腰に手を回してきつく抱きしめた。先生も抱きしめ返してくれた。


先生を押し倒してキスしようとすると、彼女は、それはダメだよ、と言う。なんでですか、という僕に、なんでも、と返す。先生はボクシングジムに通うような女性で、それなりに力が強い。押し返すの力の強さに、彼女は本気でこうなることを望んでいないのだ、と思った。そして僕は彼女の胸元に僕は帰った。すると彼女は僕のおでこにキスしたのだ。先生は「きみももう大人の男だったんだね」と言って笑う。


冗談じゃない、僕はずっと先生とこうしたかったのに、その想いを、大人の男の性欲として片付けるなんてひどすぎる。もういちど彼女の上に覆いかぶさった僕は、ずっとこうしたかったんです、と言ってまた同じことをしようとしたんだけど、今度は左頬に右ストレートを浴びてしまった。


「私が悪かった、ごめんね」
そう言って彼女は部屋を出ていった。まだ始発は走っていないのに、彼女は出ていった。腹が立ったけれど、酔っぱらっていた僕は、とりあえず眠った。
起きて身支度を整え部屋を出ようとしたとき、ベッド脇のテーブルの上に指輪が忘れられていることに気づいた。

 


それからしばらくして彼女が結婚したと、フェイスブックで知った。
先生とは、ホテルで会ってから1週間後、指輪を返すために駅前で2~3分会って以来、話していない。
上京するときに持ってきたあのテキストは、先生の匂いを失ってしまっている。