ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

「虚しさに怠けていては、生きることにはならない」

きのうなぜか酒を飲んでしまったのが失敗だった。スーパーで買った酒を飲みながらいつの間にか電気もつけっぱなしの半袖姿で眠ってしまっていて、夜中に目覚めたとき猛烈に頭が痛く吐き気がした。風邪をひいたかと思ったが違って、アルコールで副鼻腔炎が疼いたのだった。つらい。とりあえずジャージ羽織って寝たんだけど、頭が痛すぎるし吐き気するしであまり眠れず6時頃にまた目が覚めた。腹も痛くなったからトイレで踏ん張ったらあっさり立派なのが出ると同時になぜか胃の辺りにも力が入っていたらしく少し吐いた。じぶんの股の間に、ちんちんに当たらないようにゲロを吐く、その胃液と油とアルコールの混じった臭いにまたやられてえずいたけれど、出るもんはもう肛門から出しきったらしい。
ベッドに戻って、床に置かれたペットボトルからそのまま水を飲む。その水で副鼻腔炎の市販薬を流し込んだ。少しラクになったような気がするけどそれはやっぱり気のせいで、頭が痛く、気持ちもわるい。
慢性副鼻腔炎は別名蓄膿症と言われていて、これは鼻の奥の副鼻腔という空間空洞の炎症が長引いた結果、ここに膿が溜まる病気だ。膿んでるわけだから、痛い。副鼻腔とは具体的には眉の裏側だったり目頭だったり頬の裏側にあって、おれはいつも眉の裏が痛む。さいきんは後頭部まで痛くなることがあって、今朝のがそれだった。本当につらいのだ。全身がだるくてしょうがないし、何も手につかなくなり悲観的にもなる。じっさい今日も泣いた。寝ぼけていたせいもあったのか、なぜか、母の遺骨を箸渡ししたときの光景が思い出されて、そのつぎにじぶんの骨を父と兄弟がふたりで箸渡しする様子が想像された。死にたくねえなあとおもう。おれの骨は誰にも見られたくない、ていうか死んだら骨になるんだなあ、嫌だな。風葬にでもしてほしい。でも鳥に目をついばまれるのもいやだ。人知れず死にたい、でも見つけてほしい。でも白骨化して見つかるのも、いや。

こないだ読んだ本に「虚しさに怠けていては、生きることにはならない」という言葉があって少し泣いた。虚しさに怠けているのがいまのおれだから。
おれは自分の死がこわいし、さんざん不摂生したので急に病気になって死ぬのでは、という不安が拭えない。さいきんも同い年の漫画家のひとがガンになったとニュースで見た、かなしい。虚しさに怠けずがんばって生きて、まだまだこれからだ、という人がなんで病気になるんだ、だったら毎日無為に生きているおれが病気なるべきだ、とはしかし思わない。誰かの代わりに病気になってやりたいなんて気持ちにはなったことがない、でも、もしおれに子供ができたら、そんな感情も生まれてくるんだろうか。


きょうはけっきょく昼過ぎまで横たわってうだうだやって「とと姉ちゃん」を再放送枠でも見れなかった。それで、さっき見た。午前4時半の朝ドラ。案の定泣いた。金曜日の時点でととは死んでいて、きょうは遺されたかかと三姉妹の、父不在の生活が映し出された、そして「とと姉ちゃん」が誕生した。
仏壇には、ととの遺骨の入った骨壷を覆う袋が鎮座している。気丈に振舞う長女常子と、それに反発する次女鞠子。笑顔で健気に家のことをするお姉ちゃんにむかって鞠子は、お姉ちゃんは冷たいよ、ととがかわいそうだよ、と言う。常子は「私がいなくなったら常子がととの代わりに家族を守ってください」という遺言に従って気丈に振舞っているのであって、本当はみんなと同じようにかなしくて泣きたくてしょうがない。
ととの書斎で、生前のととの姿を思い出してしまい、彼の死後恐らくはじめて泣いてしまった常子は、誰にも涙を見せてはならないと、家を飛び出す。追いかけてきた母に抱きしめられながら泣く常子。彼女たちの目の前には、三姉妹がととのために咲かせた桜の木の、むき出しの枝がある


朝ドラを一週間続けて見たのははじめてのことだったんだけど、これを仕事したり学校に行ったりしながら見るのは大変だろうなと思った。朝っぱらからこんなに泣かされては気分が上がらないし、女性は化粧しなおさなくちゃならないだろう。そんなことを、深夜4時半に「とと姉ちゃん」を見終わってからおもった、ら、もうこんな時間。

 

ブッダは美人に言い寄られても、おまえみたいな糞袋には足でも触れたくないわ、と言ったらしいが、糞袋としての美人に惹かれる性癖のひともいるんだろう。いやそういうことが言いたいんじゃない。
どんな美人も皮を剥げば糞尿に満ちている、というのは極端な考えだなあと思う一方で、おれは、どうせこの命もいつかはただの白骨に変わってしまうんだと思って一歩踏み出せない。それだから「虚しさに怠けていては、生きることにはならない」ということばにはハッとさせられる。
つまり、って急につまられても着いてこれないとおもうけどそれでも、つまり、おれはどうせ死ぬってことをやっぱり言い訳にしているだけなのかもしれないとおもう。「当たり前にある日常はかけがえのないものですから」という、ととのことば、真剣に受け取りたいんだけど、どうすればいいんだろう。どうせ死ぬと悟ったフリして死にたくないと溜息漏らす、やっぱり無為に過ごすための、ただの言い訳なんだろう。