ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

おれの顔がどす黒くなれば。

どす黒い顔のおっさんがワンカップ片手に眠りこけている。小さな夜の公園、満開の桜の木の下。ブルーシートを持ってやってきた近所の若者たちが、困ったように彼を眺めている。夜桜の下は今夜おっさんのもの。おれたちは彼らを横目に尻目に歩き続けた。


おっさんを行き過ぎてから少しして、隣を歩いていた女が「やっぱり起こしてあげよう」と言って引き返し出した。「きょう寒いから」って小さい声でつぶやきながら来た道を戻る。じぶんを納得させるように、彼女はそうつぶやいていた。おれは彼女に着いてった。


顔の黒ずんだおっさんを起こす彼女のことを、半歩後ろから見る。
おっさんの肩を揺すぶりながら「もしもし、風邪ひきますよ」と声をかけている。目を開けるのが億劫なおっさんは代わりに唸り声と片手を上げる。ワンカップを持ってない方の手。


いつの間にかおれの後ろにいた警官が、どうしたのと声をかけてきた。おれを追い越し、彼女の横に立った警官は、おじさんからワンカップを取り上げて、立ち上がらせようとする。おれの半歩前にいる女、彼の横にいる彼女に、彼は言う。ありがとね、後はまかせてー。タメ口。彼女は「いいえ、おつかれさまです」とあくまでも丁寧。


なんとか歩きはじめたおじさんと警官の後ろについて、おれと女も公園を出た。公園の反対側にあったベンチでたむろしていた若者たちが、駆け足で桜の木の下へ行きブルーシートを敷こうとする。警官は彼らに振り向きもしない。
ばさばさ、しゃかしゃか。住宅街の一角にある小さな公園に、ブルーシートの音が響く。


公園を出たところでおじさんは花壇に腰かけてしまった。警官はひとりでどうやってこのおじさんを交番に連れて行くんだろ。応援でも呼ぶのかな。ひとり頭の中で思う。おれと彼女は警官にかるく会釈をして帰り道にもどった。


明日花見でもする?と聞いたら「あした雨」と女は言った。
「明日の雨で桜散るかな?」、かもなあ。
「来年も桜見れるかな」、見ようよ。
「いや、おじさん」、……。



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ホームレスとか道に迷った外国人、重い荷物を持つお年寄りとか道端で眠りこけている人に、声をかけてしまう女と、むかし付き合っていた。
「偽善とも、純粋なやさしさとも違うの」と、付き合う前のデート中、道に迷った外国人に英語で道案内したあとで、彼女はそう言った。「彼らを行き過ぎた後で、彼らのその後が気になって、あとから悩むのもだるい、だったらその場で声をかけた方がラクだから、ってかんじかなあ」。
とはいえ、この街にはたくさんのホームレス、道迷い外国人、お年寄り、路上居眠りがいるから、いちいち全員に対応するわけにはいかないよ、その声をかける・かけないの間にはやっぱり線引があるだろ?と尋ねたら、彼女は「だから、いつも、悩んでるの」と言った。
でも、付き合いだしてからの彼女は、おれとふたりデートしているときに、彼らに出くわしても声をかけることはなかった。
あの春から、急にそういうことが増えたのだった。



彼女にフラれてから何年も経った。その後何人かの女と付き合ったけれど、ホームレスに声をかける女は、彼女の他にいなかった。



おれが、顔のどす黒いおじさんになって、桜の木の下で眠りこけて、そしてそこを偶然彼女が通りかかったら、彼女はきっとまた声をかけてくれるだろう。
彼女と近づきすぎてしまったおれは、けっきょく彼女の引いたラインの外側に置かれてしまった。あの日、桜の木の下にいたどす黒い顔のおじさんよりも、いまのおれは、彼女から遠くなってしまったのだろうか。
もしも、おれの顔が黒ずんだら、また、声くらいはかけてもらえるかもしれない。そんな甘ったれたことを思いながら、缶ビールを飲み干す。