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ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

『ちはやふる』は競技かるたへの熱い恋心に満ちた青春映画なので、少女マンガ映画が嫌いな人も見るべき。

映画感想

ちはやふる 上の句』観ました。平日昼過ぎのトーホーシネマズ六本木スクリーン1には、春休みの中学生女子グループが何組かいました。彼女らは映画の作り手が狙ったところでことごとく笑っていて素直で大変よかったです。ただ、國村隼がオヤジギャグみたいなこと言ったときだけは白けたムードが漂いました、おれも國村さんがなに言ってたか忘れちゃったな。

 


この映画そんなに期待していなかったけど、おもしろかった(あらすじなどは公式HPで読んでくださると幸いです)。あと原作はずーっと前に読んでて何にも覚えていませんでした。
ぼくは少女マンガ映画自体そんなに嫌いじゃなくて、たとえば『ストロボ・エッジ』とか意欲的なカメラワーク(アルフォンソ・キュアロン『トゥモロー・ワールド』を少し思い出した)や電車や電車からの景色をていねいに撮ってるところ、そして何より浴衣姿の有村架純のバックに大輪の花火がいくつも咲く贅沢なショットは好きだったし、『ヒロイン失格』の徹底的にマンガやってやる感も悪くなかった。あと桐谷美玲はいい女優だと思う。


少女マンガ映画ってある程度安心して見れる。だいたい恋の結末は決まってるし、キャラクターも少女マンガのツボを抑えておきさえすれば、そしていま話題の若手俳優を起用してしまえば、「壁ドン」などの定番仕草をぶち込んでしまえば(壁ドンはさすがに古すぎますかね)、ある程度興行収入は見込める。それはつまり、要所要所抑えてさえいれば遊びが効くってことでもあって、だから、ストーリーにこだわらなければ少女マンガ映画って意外といくらでも見どころがあるので、おれは好き。肩肘張って見る必要もないし。



しかし、ここまで少女マンガ映画の話をしてきたのになんですが、この『ちはやふる』は少女マンガというよりは『バクマン。』みたいな映画だ。

バクマン。』は、画的に地味な漫画描きという作業を、躍動感溢れる映像で、スポーツや決闘のように見せていた。『ちはやふる』もまさにそうで、いっけん地味に思える「かるた」という「雅な遊び」を競技として捉えることによって、スポーツとして描いている。競技者たちはものすごい量の汗をかくし、かるたの団体戦では声出しなんかも頻繁に行われる。奪取した札は飛んでってふすまに突き刺さる。

とはいえ、『バクマン。』ほどに遊んでる画はなくって(漫画決闘はないけど競技かるたは現実にあるし)、CGなどにはさほど頼らず、演技者の顔のアップや、スローモーション、編集の緩急で競技かるたをスポーツとして映し出している。

もちろんこの『ちはやふる』もCGを使っていて、たとえば、畳越しに競技者の表情を映すとき。畳の下から畳を透かして見上げる形で競技者の表情と札を捉える映像は、なかなかの緊迫感がある。地味だけど良い、CGの醍醐味は現実には絶対にありえない映像を見せることだから。

あと、冒頭のカメラのゆったりした動きとぼやっとした映像は『バクマン。』を意識していることの証左だとおもう。




少女マンガ映画における俳優陣の白々しい演技がどうも苦手だというひとは少なくないだろうけど、『ちはやふる』は百人一首、つまり1000年続く「歌」に登場人物たちが自らの想いを重ねていくことによって、少女マンガ映画風の、大げさな、ねっとりした、不自然な、セリフや演技が薄めていて、大人の鑑賞にも耐えるものになってる。また、主人公の千早(広瀬すず)はかるたのことばかり考えているんで、太一(野村周平)や新(真剣佑)が彼女に寄せる恋心が、前編である「上の句」ではそんなに表に出てきていなくて、だから楽しく見れたのかもしれない。
大抵の少女マンガ映画は恋に結末をつけるために後半勢いが落ちることがあってそこが難点なんだけど、『ちはやふる 上の句』はまだ恋の行方的なものが全面に出てこない。かるた部を立ち上げた千早と、千早に想いを寄せるがゆえに同じ高校へ進みかるた部にはいった太一が、仲間たちと結束していくっていう「青春ストーリー」になってるので、童貞と処女のなまっちょろい恋愛(をしかも色々体験してきたであろう美男美女が演じてるの)なんか見たかないわって人でも楽しく見れると思う。『下の句』になったらどうなるかわからないけど……。



本作でもっとも魅力的なのは、横に広いシネマスコープ(ワイドスクリーン)という画角を活かした絵作りで、団体戦で両チームが横並びにあるシーンなんかはもちろん映えるし、取った札が飛んで行くさまも横幅が広いからちゃんと捉えられる。
しかし、いちばんこのシネスコが映えるシーンは、地区大会前日、千早と太一が帰り道で別れるところだ。画面奥から一本道を歩いてきた2人、画面右側の植え込みが途切れ、そこからUターンする形で下り坂が現れ、いま来た道と下り坂に道が分岐する。太一の帰路はまっすぐで、千早のそれは下り坂で、そこで2人は別れるのだけれど、千早がしばらく歩いたところで、太一は彼女を呼び止め何かを言おうとする。しかしその言葉を飲み込んで代わりに「明日頑張ろうな」みたいなことを言ってそれに千早が笑顔で応える。
このシーンは太一サイドと千早サイドの切り返しで繋がれていてこのときの2人の距離感がシネスコで上手に切り取られていて、本作でいちばんいいシーンだった。太一と千早の思いの微妙な、本当に微妙なズレがこの分かれ道で表現されているし、この画面の端と端で見つめ合う2人という構図もまたこれ以上先には行けない太一のもどかしさの現れになっていて泣けるんだなあ。

このシーンをきっかけに太一は神主であり、かるたの師匠でもある國村隼に、じぶんの至らなさ、ずるさを告白し、過去の過ちをほのめかす。そこで太一は「青春のすべてを賭けても(ライバルであり幼なじみであり今は遠くに住む)新には敵わない」と弱音を吐くのだけれど、そこで國村は「そういうことは賭けてから言いなさい」と教え諭すのだった。そう言われたときの野村周平の表情はすっごく良くて、目が澄んでいくさまが見てとれた。

 

以上のように、國村隼、かっこいいことも言っていたんだけど、一方で冒頭に言った「オヤジギャグみたいなこと」がまだ思い出せない。それはたぶん、この映画が「静寂」を撮っているからではないか。
千早は天性の耳を持っていて、それは、たとえば「ふ」と言う音が詠まれるとき「『ふ』になる前のFの音を聞き取れる」というもの。だから千早が耳をすませる瞬間(髪を耳にかける仕草)がなんどもあって、その瞬間、映画は千早の耳と同期して静寂を聴き取る、雨の音も、観客の声も聞こえなくなり、ただ詠み手の声を待つ。そのときの静寂はなかなかハラハラさせられるもので、やっぱりこれは「少女マンガ映画」ではないなあと思わされる。だって、映画のクライマックスに、あっつい恋のセリフによって観客の耳をくすぐるどころか、静寂で耳を鋭敏にさせるんだから。聞こえるよりも前を聞く、そんな恋愛映画ってなかなか思い浮かばないわけですが、あるいはそれって最も甘美な恋かもしれないな。『ちはやふる 上の句』は『下の句』の前を聞くというかるたへの恋心に満たされた青春映画なんですね。
そんなわけで女子中学が白けてしまうオヤジギャクよりも静寂の方が耳に残ってる。つまり、この映画は感性が女子中学生に同期してしまう映画なんである!(?)