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ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

社会

自意識過剰で、何かを見ているときだって、それを見ている自分が誰かからどう見られているか気になってしまう、そんな風だから何事にも没頭できないでいる。


セックスしてるときでも、重力に引っ張られた皮下脂肪が女の腹にたぷんたぷんと当たるのが恥ずかしくて、だからお腹を引っ込めることにばかり意識が集中しちゃって、終わってみたら女の裸はもう覚えていなかった。


かといって体を鍛えて腹をフラットにして女を抱くということもしない。彼がいちばん求めているのは「太ってるアナタが好きよ」と言ってくれる女性だった。


彼はじぶんは愛されて当然の男だと思っているがしかし、これといった取り柄がじぶんにないこともわかってはいる。それどころか彼は平均よりも下層に位置している。いまはたまたま家がそれなりに裕福だったおかげでなんとかやっているが、こんな生活が続くかどうかはわからない、続かない可能性のほうが高いだろう、親はじぶんよりはやく死ぬからだ。彼らがお金を残してくれることはないだろうし。


しかし、それでも男は日々漫然としている。未だに「がんばればなんとかなるっしょ、切羽詰まってからがんばればいいんだ」なんて思っている。でもどこかで不安もある。そもそもおれはがんばったことがないのに、崖っぷちでいきなり踏ん張れるんだろうか、そういう考えがときたま沸いてくるが、彼はあまりものを考えることができないタチなので、考えはすぐに蒸発して消えてしまう。彼は、思考が煮詰まってしまう、という経験がないのだ。煮詰まってしまうまでいったことがないから、煮詰めるくらい簡単だろう、とタカをくくっている。


彼はとても素晴らしく愛された。母に、おまえはかっこいい、とか、おもしろい、とか、大物になるはずだ、とか、とにかくその素質を褒められていた。実際のところはどうなのか判然としないが、彼は母のその言葉に満足していた。じぶんは素晴らしい人間だと思えていた。それはとても幸福なことだ。世の中にはこの種の賞賛を誰からも得られずに死んでいく人が案外多い。彼はしあわせな息子だった、少年だった。



ある日、彼が立ち読みした雑誌に、人生において必要なのは、人から必要とされることだ、と載っていた。「必要とされる」と一口に言っても、それには2種類あるらしく、ひとつは家族や恋人、友人といったごく身近な人から必要とされること。もうひとつは広く社会から必要とされる、ということらしかった。雑誌でそのことを説明していた高名な先生は「どちらの側からも(プライベートな人間関係からも社会からも)必要とされるのがもちろんベストだけれど、どちらが大事かといえば、それは前者、つまりプライベートな人間関係において、あなたが必要ですと言われることの方がとうぜん大事」と言っていた。けれど、彼は思った、高名な先生にそんなこと言われたってなあ、って。それって、どちらからも必要とされてて余裕があるから言える、あるいは、社会から認められているけど家族や友人がいないから「隣の芝は青い」って感じで物言ってるんじゃないのかなあって、思った。


身近な人に必要とされるしあわせはこれまでの人生でそれなり味わった、ママはおれがいなきゃ寂しくて死んじゃう人だし。だからおれはその味には飽きたんで、次は社会から必要とされる味が知りたいな、と彼は欲求しはじめた。しかし彼には社会から欲されるためにじぶんがどうしたらいいのかわからないのだった。そもそも、社会ってなんなのか、社会って誰なのか、社会ってどこにあるのか、わからないのだった。社会とはなんだ、ない頭で考えてみた彼の結論。社会とはライザップだった。社会とは「太っているアナタはダメだから痩せなさい」って言ってくるのだった。「痩せればあなたは見違えるようにカッコよくなり、人々から信頼も得られ、自信もついて、人生がより輝くよ」と社会は言ってくるのだった。彼は「太っているアナタが好きよ」と言ってくれる女性を求めていたので、社会から認められるよりもそういう女性を探そうと思い立った。わざわざ必死こいて痩せて女に愛され社会からかっこいいって言われきみは信頼できそうだって握手を求められるより、いまのままの太ったおれを愛してくれる女がひとりいればいいじゃないか、と彼は思った。やっぱり、社会から必要とされなくたっていい、ママ以外の女から、ありのままのおれのすべてを愛されたなら、それはたぶんいままで味わったことのない味なんじゃないか、って彼は思い直したのだ。


「太ってるアナタが好きよ」と言ってきた女はめちゃくちゃデブだったので、「おれは太ってるアンタが嫌いだ」と言って彼は女をお断りした。社会は彼だった。女の腹にたぷんたぷんとぶつかるじぶんの腹が嫌いだったことを、彼は思い出した。彼はまもなく社会に加入しみるみるうちに痩せて筋肉をつけ、じぶんの体を愛しはじめ自信がつき仕事がうまくいき女を抱きまくった。彼は「太ってるアナタが好きよ」って言われたかった頃のじぶんを忘れた。「アナタの腹筋大好き」と言って腹に口づける女たちの乳房を弄びながら、社会めっちゃ楽しい、って思っていた。