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ガネーシャとしてのディーパンが自らこしらえるNo Fire Zone 『ディーパンの闘い』感想文(ネタバレあり)

『ディーパンの闘い』は内戦下のスリランカから難民として脱出したディーパン(アントニーターサン・ジェスターサン)という男が、2人の見知らぬ女と「擬似家族」をつくってフランスで生活していくという筋書きです。

 



インドの南東にある大きな島スリランカから出国する際、難民キャンプで3人は出会います。家族であった方が難民申請に通りやすいらしく、ヤリニ(カレアスワリ・スリニバサン)という若い女はキャンプの仲で孤児を探しているようです。ようやく見つけた9歳の女の子イラヤル(カラウタヤニ・ヴィナシタンビ)を親戚から引き離したヤリニは、イラヤルを連れてテントの中に入っていきます、そこではディーパンが待っていて、彼らは難民の審査をしている男に、私たちは家族だと主張し難民申請が受理されます。
彼らは船に乗って一路フランスへ。ヤリニはそのままいとこの住むイギリスへ行くんだと言いますが、ディーパンは、ヤリニはオマエが連れてきたんだからちゃんと面倒を見ろと言って彼女を引き止めます。こうして彼らの「擬似家族」としての生活は始まっていくのです。


擬似家族がはじまるにあたって重要なカギとなるのはイラヤルで、彼女が「お父さん」であるディーパンに甘えたり、「お母さん」であるヤリニに私を愛して、と言ったり、素直に「親」の愛を求めていくことによって、家族が作られていきます。
難民支援を行っている男の紹介で自身が住む集合団地の管理人の仕事を請け負ったディーパンは持ち前の手先の器用さで団地の整備に精を出します、エレベーターの修理までしてしまうのだからすごいです。一方のヤリニも認知症の老人がいる家に家政婦として通ってお金を稼ぎます。彼らは異国フランスで働き、自分たちの生活を作り上げていきます。
初日こそ、クラスメイトたちの突き刺すような視線に恐れをなして教室から飛び出しディーパンに「学校行きたくない」と甘えてみせたイラヤルもやがてフランス語を学ぶ特別学級からフランス語で学ぶ普通学級に入ります。
そうやって、各々がじぶんのやるべきことをやりながら、家族としての絆も少しずつ育まれ、ディーパンとヤリニは肌を合わせることになります。ディーパンが扉の隙間からシャワーを浴びるヤリニを眺めるシーンが2回あってどちらも欲望の発現がよく映しだされていて感動的です。


そうやって家族ができていく一方、彼らが居を据えるパリ郊外の集合団地がとても物騒であることがわかってきます。若者たちが昼間からたむろしてどんちゃん騒ぎ、薬物も蔓延し、やがて発砲事件まで起きるのです。
ヤリニとイラヤルは買い物帰りにこの発砲事件の現場に遭遇し、怯えます。仕事から帰って、彼女らの恐怖心を目の当たりにしたディーパンは翌日、お手製の石灰散布機で集合団地の中庭に白線を引き始めます。マンション管理人として、夫として、父として、彼は「No Fire Zone」(非戦闘地域)をつくりました。
もちろんチンピラたちはそんなディーパンの行動にむしろイラだっていく。その一方でヤリニは、せっかく戦火のスリランカから逃げてきたのに、なんでまた暴力に怯えなくちゃならないんだと思い、イギリスへ渡ると再び言い出します。やっと家族になれたのに、3人は離れ離れになってしまうかもしれない、そのときディーパンはどうするのか。端的に言えば、No Fire Zoneは、Fireによってしかつくりえないのです。

 

ディーパンがNo Fire Zoneをつくったのは、自宅でパソコンを通してスリランカの戦場動画を見た後。PCスクリーンには非戦闘地域にも関わらず一般市民が殺される現状が映しだされていました。同じように、集合団地の、そして家族の平穏を守るために、秩序づくりに励まなくてはならないディーパンが白線を引いても、チンピラたちは、銃を置きません。そしてディーパンは、生活から暴力を排除するために、驚くべき行動に打って出ていきます。

 

『ディーパンの闘い』は、難民問題を扱っているとはいえ、はしばしにユーモアが感じられます。光るおもちゃを夜道で売っているディーパンや酒に酔ってひとり歌って踊るディーパンはとても愛らしく、見ていて思わず笑みがこぼれてしまいます。暴力シーンも刺激的で、たんなるヒューマンドラマ的なつくりとは明らかに異なっています。また、夜景の中にある電飾が美しかったりと映像的にも非常に見応えがあります。


美しい映像のひとつに、ガネーシャのイメージとして象が映しだされるショットがあります。これは物語の筋とはまったく関係なく2度出てくるのですが、おそらくスリランカの森の中にいる象なのでしょう。ガネーシャとは、ヒンドゥー教の神のひとりであり、主に現世利益をもたらす存在として信仰されています。

結末を言ってしまえば、ディーパンは闘いに勝ち、フランスで成功を収めました。そのことはガネーシャのイメージによって映画内で予言されていたことでもあります。しかしおそらくディーパンはガネーシャなんて信じていません。いちど、寺院のようなところでヤリニとイラヤルが祈りを捧げるシーンがありますが、ディーパンは彼女らを見守るだけ。また、素手で食事をするイラヤルに「明日から学校でご飯食べるんだからスプーンを使え」とたしなめるシーンもあります。


このことからわかるように、ディーパンは生きるためならその信仰や生活文化を変えることも厭わない男です。じっさい、ガネーシャは現世利益をもたらす神であり、死後の幸福のために祈られる神ではありません。現世をよりよく生きるために、何をすべきなのか、ディーパンは最初からわかっていた。だから、彼がラストで見せる恐ろしい所業に対して私たちは嫌悪感を抱くどころか、スカッとさせられて、自分も頑張らねばと思わされるんです。

 

ディーパンが教えてくれるのは、自らの生活を守るために人は闘わなくてはならないということ。そんなことをこの映画に教えられたニートは、労働をしなければいけないと、また少し襟元を正しました。