ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

イニシエーションとしての弔い、死者ではなく死にゆく者のために。 『サウルの息子』感想文

『サウルの息子』は弔いがおろそかになりがちな現代に、葬儀という通過儀礼の意味、なんのために人は人を弔うのか、という問題を提起するような非常に価値ある作品でした。

 

 

まあおれなんかに価値あるって言われなくたって、アカデミー外国語映画賞取ってますので、安心して、ぜひ見に行ってほしいです。公開からもう1ヶ月以上経っているのでお早めに…。以下、映画感想文をちょっと硬い文章で書いてみたいと思いますー。


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本作が長編デビューとなるネメシュ・ラースロー監督は彼自身祖父母をホロコーストで亡くしている。10年前に強制収容所におけるゾンダーコマンド(特殊任務部隊)の存在を知って、本作を構想し始めたという(衝撃の話題作『サウルの息子』のネメシュ・ラースロー監督に聞く | ニューズウィーク日本版)。
ゾンダーコマンドとはナチスによって選抜されたユダヤ人であり、彼らは同胞ユダヤ人の死体処理に従事させられた。一定期間が経つと彼らも処分されるがゆえに、『サウルの息子』では、サウルが「我が子(と思われる少年)」の弔いのために奔走する様子を映しながら、ゾンダーコマンドの脱走の顛末も語られていく。


アウシュビッツに到着したユダヤ人たちを「消毒」すると騙して脱衣所に連れていき、老若男女問わず裸にさせ、ひとつのガス室に押し入れる。彼らがガス室に入ったあとすぐ、ゾンダーコマンドは二度と着られることのないユダヤ人たちの衣服を回収するのだが、その間、隣のガス室で処分されているユダヤ人たちの叫びと呻き、鉄扉を叩く音が脱衣所にもこだまする。ガス室で苦しむ人々の様子は映されることなく、カメラは、常に無表情に衣服の回収を行なうサウルを捉え続ける。声と音だけが、観客にガス室内部の凄惨さをイメージさせていく。


じっさい、この作品は「残忍さ」を鮮明に見せること常に避ける。サウルの周辺に寄り添い続ける手持ちカメラは、サウルの後ろ姿かサウルの表情、またはサウルの見ているものを捉えている。カメラの焦点はたいていの場合サウルの範囲に留まるため、「残忍な光景」の全体像はいつもぼやける。しかも画面はスタンダードサイズで小さいため、サウルのクローズアップで画面が埋まることもよくある。
映し出すことが、再現することが、不可能なホロコーストを、観客に想像させることで「見せていく」本作は、映画の限界と可能性に触れているようだ(とはいえ、「切り返しショット」などもときに使われ、手法にこだわり過ぎないのが本作の長所だと思われる。観客に感情移入させることに重点の置かれたカメラワーク)。
また、見えづらいからこそ、ぼやけた亡骸に目を凝らしてしまうということも忘れてはならないだろう。目を背けたくなるような、と私たちはすぐに言ってしまうが、背けられないからこそ背けたくなるのである。私たちは見たくて見たくてしょうがない生き物でもある。


死体となって折り重なったユダヤ人たちはその後焼却され灰となり川へ流されていく(ガス室で死んだ彼らが折り重なっているのは、ガスから逃れようとする彼らが上へ上へ登っていこうとしたからだと聞いたことがある)。しかし、ごくまれにガスで殺されずに生き残る者もいる。しかし、瀕死の彼らもすぐに息の根を止められるだろう。そして恐らく、なぜガスで死ななかったのかその原因を探るために、彼らは解剖に回される。その解剖に回されることとなった少年が「サウルの息子」である。


しかし、サウルは台の上に乗せられた少年の顔を見ても、それが本当にじぶんの息子なのかどうか核心を持っていないようにも見える。なぜなら、サウルの息子とは、妻ではない女に孕ませた子であり、彼は久しく息子に会っていないからだ。それでもサウルは彼をユダヤ教の教えに従って「息子」を弔おうとひとり奮闘する。
なぜ彼は自分の息子かもしれない少年を弔うのに必死なのか。それは、逃れることのできない圧倒的な現実、つまり、すぐに訪れる自らの死を前にしたサウルにとって、捨ててしまった息子を弔うことが、償いとなるからだ。彼にとって「息子」を弔うことは唯一の生きる意味だ。だから彼はゾンダーコマンドの脱走計画に参加しながらも、その作戦で失敗を犯す。彼にとって脱走ははじめからありえないことだったのである。『ライフ・イズ・ビューティフル』のような奇跡はここでは描かれないのだ。


葬儀とは通過儀礼である。私は文化人類学など学んだことがないので、「葬儀とは通過儀礼である」なんて言ってもそこまで深い話はできない。「葬儀も通過儀礼なのか」と知ったのは島田裕巳『映画は父を殺すためにある』を読んだからだ。その読書経験を省いて個人的な思い出話をすれば、高校生のころに叔父の葬儀に参列した後、私の母は「お葬式とか、人が死んだ後の儀式って生きている人のためにあるのよね」と言った。母の言葉は、『サウルの息子』の重要なテーマのひとつであると私は思う。


サウルは自らの「息子」を弔うためにラビ(ユダヤ教におけるお坊さんのような存在)を探すのだが、サウルのせいでそのラビは死に至るし、ゾンダーコマンドたちの脱走計画においても重大なミスを犯す。彼は決して「善良なユダヤ人」ではない。かつて過ちを犯し、そのことを悔いている、ひとりの男でしかない。ホロコーストで殺されたユダヤ人たちのことを想うとき、私たちは、彼ら彼女らのことを「善良な何の罪もない人々」だと考えがちだが、虐殺された彼ら彼女らの中にも、ひどく性格の悪い人や、誰かを殺めた人もいただろう。サウルの存在は、ユダヤ人たちひとりひとりの存在を私に思い出させた(もちろん私は誰かを殺めた人が、ユダヤ人であることを理由に殺されたことはきっぱりと否定する。ただ、あのホロコーストの被害者の中には、誰かにとっての加害者もいたであろうことを指摘したいだけだ)。
サウルが「息子」を弔うことに異様なまでの執着を見せるのは、弔いの達成が彼の懺悔となり、癒やしとなるからだ。彼は捨ててしまった「息子」に赦されるために手厚く葬ろうとしているのである。誤解を恐れずに言えば、彼は「息子」のためでなく、自分自身のために、葬儀を行おうとしている。捨てた我が子に許されなくては、彼は、人生の次の段階へ行けないのだ。葬儀は死者のためではなく、生者のために、イニシーエションとしてあるというのは、こういうことだ。

 


話はそれるが、『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』の第一話で、主人公は母の遺骨を、トイレに流されてしまう。あまりに残酷なシーンだった。
幼いころに母を亡くし天涯孤独となり親戚の家に預けられた彼女は、母の入った骨壷は大人になるまで傍らに置いて生活している。自分で稼いでお墓を建ててあげたかったのだろう。しかし、彼女を育てた親戚のおじさんはその骨を水洗トイレに流すのだ。まるで、焼却されて灰となったユダヤ人たちが川に流されてしまったときと同じように(とはいえ、彼女は母の遺骨がなくなったことをキッカケにしてその家から出奔し、自立していくので、これはある種のイニシーエションになっているのかもしれない。第一話しか見ていないので大きなことは言えませんが……!)。
弔いが達成されないことは悲劇だ。


そもそもユダヤ教では火葬は死者が復活できないとして禁じられている。最後の審判を迎えたあと、魂が戻り復活するための身体が必要だから。サウルは彼の「息子」の死体を、兵士たちの目を盗んで匿う。死体を土葬したうえで、ラビの祈りによって弔おうとしている。それが達成されることではじめて彼は救われるのだ。

 

『サウルの息子』が白眉となっているのは、ホロコーストから生き残るための闘争/逃走をその主題に据えるのではなく、人はいかにして弔われ、死ぬべきなのかという点を描いているからだろう。本作は確かにホロコーストという事件を題材に扱っているが、そのテーマは現代に生きる私たちにも大きな問題提起を行っている。私たち遺族は、どのようにして彼らを彼女らを葬ればいいのだろうか、彼らを彼女らをどのように想えば私たちは自分たちの生を全うできるのだろうか。

 

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私の実家には死んだ母の遺骨の入った骨壷が、お墓に入れられることなく未だに仏壇の前に置かれている。彼女の葬り方が決められないからだ。生前の母は「私が死んだら骨は海にでもまいて」なんて冗談交じりに言っていたが、その言葉はいまはもう宙ぶらりんで、私たち遺された家族はただただ戸惑うばかりだ。『サウルの息子』を見て、母の骨壷がまた少し重たくなった。


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あと、ニート的に言うと、ナチス兵たちがゾンダーコマンドに投げかける「働け!」(「arbeit!」?)が耳にこびりついて離れません(ゾンダーコマンドの「労働」に焦点を当てた文章としては、「脱人間化の極限」に抵抗するアウシュビッツのゾンダーコマンドの姿に深く心を揺さぶられる | 大場正明が面白かったです)。