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ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

積読は背伸びの証、手放した本の数だけひとは成長するのか。

うちにはたくさんの積読本があるのですが、たまに既読も積読も含めてまとめて処分します。古本屋に売ります。

その処分作業のとき、売り飛ばす方に分類した本でも、ドッグイアーのあるページやブルーラインの引かれた文章はたくさんあって、その印ある箇所を読み直し、じぶんがどこに惹かれたのか、興味を覚えたのか思い出します。

たまに、そのページの、その文章のどこに引っかかってマークをつけたのか思い出せないこともありますが、たいていは思い出すので、そのときはメモします。手書きでやることもあれば、iPhoneに記録することもあるし、Wordにタイプすることもあります。
また、未読のまま手放すことに決めた本も、パラパラとめくって面白そうだと感じたらタイトルをメモして覚えておき、図書館で借りることにします。


メモしているうちに、その本が実は自分にとって大切な本で手放すべきではないのかもしれない、と未練が残ることもあるのですが、たいていはちゃんと部屋から追い出します。


そうやって去っていく本がある一方で、残る本があります。
不思議なもんで、仕分け作業のときに開かれることのなかったそれらの本たち、いちど読んでものすごい印象に残った本や、これから読むであろう積読本たちは、たいてい部屋から消えた本よりも印象が薄くなってしまう。

いちど読んで感銘を受けた本や、これから読むであろう本は、未来のじぶんにとって大切なはず。でも手放した本の方が、現在のじぶんの心に刻まれている。手放す本は、別れのときに反芻されているぶん、記憶に残ってしまう。

たくさんの本を処分して部屋が少しスッキリしたとき、ぼくは、過ぎ去ったもの、手放したものによって今のじぶんが出来ている、と感じます。そして、部屋に残ったたくさんの未読本に囲まれながら、未来のじぶんを想像して少しワクワクします。部屋をもっとスッキリさせたくなる。本を読むぞ、と決意する。



ぼくは部屋にひとを入れるのがイヤな人間です。部屋にある本を見られるのがイヤだから。でもイヤな理由が人とはちょっと違うかもしれない。
ふつうは「じぶんの本の趣味を知られるのが恥ずかしい」とか「本でじぶんのレベルを見定められたくない」とかそういう気持ちがあって、自室の本棚を見せることを嫌うと思うのですが、ぼくの場合は、部屋にある本を見られると、じぶんの「背伸び」がバレてしまうから、イヤなんです。


背伸びしてるのを見られるのがイヤだっていうのは、問題だなあとおもっています。背伸びってじつは愛らしいし、応援したくなる、支えてもらえることだってあるかもしれない。もっともっと大きくなりたいと言えるようになることは、じぶんを外に開いていくために必要な気がします。


なんだかどんどん話が逸れていきそうなので、ここらで指を止めて、重たい紙袋を提げブックオフに向かいます。