ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

不謹慎な笑いという甘え

高校時代の友人のいわゆるすべらない話が好きだった。

彼の祖母は85歳くらいでとても元気だった。彼が彼女の家に遊びに行くと、いつも天ぷらを揚げてくれて、台所と食卓をせわしなく行き来する。食事も一段落すると祖母は500mlのペットボトルに入ったコカ・コーラをごくごくと飲み干した。友人が「おばあちゃんもう歳なんだから、コーラ飲み過ぎたらダメだよ」と笑いながら言うと、祖母は「いいや、これが私の健康の秘訣なんだよ」と笑い飛ばしてたらしい。じっさい彼女は病気1つしたことのない健康な人だった。
ある日友人が祖母の家を訪ねたとき、彼は持参したCCレモンを食卓に置く。それを見た祖母は「それすごい色してるねえ、おいしいの?」と言って彼からCCレモンを一口もらった。それを飲んだ彼女は「こんなおいしいものがあったのか!早くおしえてちょうだいよ」と二口目を喉に流し込んだ。以来、彼女はコカ・コーラの代わりにCCレモンを毎日飲むようになったという。

それから1ヶ月も経たないうちに友人の祖母は死んだ。脳梗塞だったか心筋梗塞だったかなんだったか忘れたが、急逝した。それまで健康だった祖母が死んだのは「健康の秘訣だったコーラをやめてCCレモンに乗り換えたからだよ」と友人は笑う。


この話がぼくは大好きだった。周りの友人たちは不謹慎だと言って苦笑いするだけだったが、ぼくは爆笑した。そんなわけないだろ!というツッコミは野暮でただただ彼がひとりでこの小咄をするのが好きだった。そして、仲の良かった祖母の死という悲しみを笑いに変えて話す彼が好きだった。


不謹慎な笑いというのがある。
ぼくも母が急逝した後、友人たちと飲んで会計のときに「おまえはきょうは払わなくていいよ」と言われ「いや、むしろ香典たくさんもらって金あるからおれがおごるよ」と冗談を言った。そのとき彼らは苦笑いを浮かべて「笑えねえよ」とか「笑っていいの?」と困っていた。笑ってほしかった。

あまりにも理不尽な出来事に遭遇したとき、人は怒ったり、泣いたりする、それと同じように笑ってしまうこともある。そんなことを岸政彦『断片的なものの社会学』というエッセイ集?のような本の「笑いと自由」という章を読んで思い出させられた。
理不尽な出来事に出会うたび、ぼくらはそれに「折り合い」をつけるためにいろんな方法で、その理不尽さを感情に変換して外に排出し、なんとか生きていく。高校時代の友人とぼくにとっての「折り合い」のつけ方は、「不謹慎な笑い」にすることだった。


しかし「悲劇」的な出来事をネタにして人を笑わせようとするとき、怒ったり泣いたりする以上に、その話を聞いてくれる相手にぼくらは甘えていたのかもしれない。笑い飛ばせない出来事を笑い飛ばしてほしいから、「笑い話」として話す。悲しみを笑いに変えるという屈折の技術は、選ばれた人にしかできないアクロバティックな行為だ。曲芸師でもないぼくらが、「悲劇」を笑いに変えようとしても、それは確かに聞いている人を困らせるだけかもしれない。

ぼくは最近、じぶんが本当は泣いたり怒ったりしたいのだと薄々気づいている。ふつうの甘え方が分からないから、ぼくは屈折した甘え方をしてしまう。上手に泣いたり怒ったりできないなら、笑いの技術を磨くしかないのだけれど、それは泣いたり怒ったりするより遥かに難しいのだよね。

言葉というものは、単なる道具ではなく、切れば血が出る。そうした言葉を「受け取ってしまった」人びとも、もはや他人ではない。
人の語りを聞くということは、ある人生のなかに入っていくということである。 (岸政彦『断片的なものの社会学』「笑いと自由」P.99)

 
血の出た言葉を人前に出すのは、涙を流すよりこぶしを飛ばすよりも、ある意味では甘えているのかもしれない。せめて、美しく血を流さないと、人は笑えない。

 

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学