ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

「ひとつ恋でもしてみようか」

「日記は、必ずしもその日あった出来事を書きつけ、反省したり、自己満足したりするだけのノートではない。倦怠と無為に支配された郊外にあっては、積極的に行動を起こす動機にもなる。つまり、日記に何も書くことがないから、ひとつ恋でもしてみようか、というわけだ。
ぼくは、一日に一日ずつ過ごす“ある日”に何らかの定義を与えようとしていた。きょうは陸上部の同級生とデートして、キスができなかった日、きょうは美人家庭教師のおっぱいに肘が当たった日、そして、先週末は幼馴染みの愛の告白をうながしてやった日、今月初めは夢の中でレコード針を使ってオナニーをした日、という具合に」
島田雅彦『君が壊れてしまう前に』より

 

島田雅彦の熱心な読者ってわけではないけれど、ブログをはじめるための理由あるいは言い訳には、これがいちばんしっくりくる。


「ひとつ恋でもしてみようか」なんてキザなセリフ、25歳の無職には言えない。かといってこの本の主人公のように14歳だった頃のぼくには言えただろうか。あの頃のぼくはどんなんだったか、もうちっとも覚えていない。もったいないことだ。だからこれからは「一日に一日ずつ過ごす“ある日”に何らかの定義を与え」ていきたい。

無職の日常はともすれば一年間いっさいのグラデーションがない。何色であろうとベタ塗りだ。ひとつ恋でも、なんて大それたことを気軽にできなくても、ひとつ電車に乗ってかわいい娘を見つけて家を突き止めるくらいのことはできる。ひとつキスでも、なんてそんなこと言わないから、家の外観見るだけ、それくらいいいでしょ、ダメ?


とにかくなんでもいい、書いて残して“ある日”を思い出すきっかけにこのブログをしたい、そして誰かの“ある日”を思い出すきっかけになれたらなんて下心ももちろんありつつ、ひとつ恋でもしてみようか。


noteは少し前から断続的に書いてます。

この記事を書いた数時間後に母は倒れ、そのまま意識を戻すことなく死んでいった。
“ある日”の記憶。