ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

『天気の子』感想

『天気の子』はパーフェクトなファンタジーだった。僕らを濡らしつづける鬱々とした雨を振りきる圧倒的なスピードで駆け抜けるストーリーは、弾丸のごとく僕を撃ち抜いた。Yahoo!知恵袋も、新宿も、プレモルも、日清もアパホテルも止まない雨も法律も、拳銃と同じように僕らを日々損ない続けている。この世界は狂ってる。

リアルに描かれた狂った世界の片隅で、マジカルなロマンスは、人知れず世界を揺るがし煌めきを放つ。今描きうるファンタジーはこれしかないと思った。


穂高が向ける陽菜への想いの頑なさに胸を撃たれる。誰かへの想いが衝動に変わり、理性や道徳を放棄して行動してしまった経験は、僕にはない。だからこそ、そんな瞬間に憧れる。きっと、穂高自身もそのときを待っていたから、100%の晴れ女に出会った瞬間、自分の人生を「棒に振って」でも想いを遂げてしまうと覚悟しただろう。

陽菜と凪を迷いなく連れ出し、警察の追跡をかわしていく。拘留されても脱げ出すし、刑事に銃口だって向ける。手錠をかけられたその手で陽菜を捕まえ、空を落ちていくふたりの姿に、僕は心を引き裂かれる。都市を水没させてでも愛する人と共に生きたがる、その想いの強度に慄く。


29歳になり、結婚をし、娘を育てる父になった僕は、穂高になることは永遠になかった。穂のように高く伸びていくような、少年から青年へと成長する過程にある人間に許される選択は、僕にはもうできない。鋼鉄の意志で、家族を守る側に立ちたい。でも、穂高のように線路を走りたいし、拳銃を握りたいし、空を落ちていきたい。

実際にはそんなこと、僕が29歳で、夫であり父であることとは無関係にやってはいけないことで、誰にも許されないことなのだけれど。だからこそ、道徳的に法律的に許されなくても、自分の感情と衝動と論理だけに許されるときを待ち焦がれてしまう、僕は穂高のようには島を出発できなかったから。後悔ではなく羨望がある。

 

自分にとって必要なものが分っていて、まっすぐに生きてこられた人は、この物語に心揺さぶられないだろう。情熱、衝動、劣情という目には見えないエモーションに身を引き裂かれてみたい、引き裂かれてみたかった、と思う人間だけが、『天気の子』に涙を流すんじゃないか。


余談だけれど、フリーライターの僕には、穂高がたまたま『月刊ムー』に寄稿するライターの須賀にフェリーで出会い、彼のアシスタントとして働きはじめる展開が羨ましかった。僕もせめて大学生のうちに、ああいう経験をしたかったな。東京にひとりぼっちは辛いから。

『全裸監督』は退屈だった

『全裸監督』でツイート検索すると、「面白い作品なだけに、黒木香さんの同意が無かったとすれば残念」という言葉に何度か出くわすのだけれど、僕はそもそもこのドラマを面白がれなかった。

 

 

アダルトビデオ黎明期に、文字通り裸一貫、自らカメラを持ち男優も務め、“革新的な”AVを世に放った村西とおるの人生を綴った『全裸監督 村西とおる伝』をベースにして作られた本作。

そもそも彼の作品がどんな風に革新的だったのかが、ドラマを見ただけではちっとも分からない。もちろん、村西の撮ったアダルトビデオが革新的だった理由はわかる。擬似セックスを撮るのが当たり前の時代に本番を導入したこと、監督自らカメラを持ち男優も務めたこと、大手の販売網に頼らず作品の質だけでファンを獲得したこと、そういった革新性は、ドラマを見ていれば、情報として入ってくる。撮影現場は再現されているし、登場人物たちの会話を通しても村西がいかに型破りな存在なのかは、律儀に説明されている。

 

しかし、当時村西とおる黒木香のアダルトビデオに群がった人間たちの興奮がいかほどだったのかを追体験することはできないから退屈だった。

安っぽいセットのなかでチープな照明を浴びながらちょこまかとしたカメラワークでもって捉えられるAV撮影シーンはつまらない。村西とおる黒木香が切り開いた(とされる)道の先に生きている29歳の僕にとって、彼ら以降の世界は自明のものだから、本番やハメ撮り、女性優位のセックス、駅弁なんてのは、映像化されたところでなんの面白みもなく、コントっぽい演出も相まって苦笑してしまう。長回しでも大胆なカット割りでも流麗な編集でもいいけれど、とにかく趣向を凝らして撮影現場の“興奮”を再現してほしかった。当時のアダルトビデオ(の撮影現場)を忠実に再現するのではなく、そのビデオを見た人間たちの「今までになかったものを観ている!」という興奮に、限りなく近いエモーションを創造すべきだった。

 

『全裸監督』はキャラクターを演じる俳優の頑張りに頼るばかりで、観ていてしんどい。

村西とおる(山田孝之)も黒木香(森田望智)も生々しく生きている実存というより、型にはまったキャラクターだと思った。僕が『マインドハンター 』や『ベター・コール・ソウル』、『ナルコス』、『火花』を好きなのは、登場人物が生きていると実感できるからだ。これらの作品の登場人物たちの内面は常に揺らいでいる。矛盾を抱えながら生きている。さまざまな人間関係や事件に直面し、そのたびに彼らの実存は揺らぐ。不安定な個人の生き様を生々しく切り取るNetflixのドラマは面白い、生きるとは揺らぐことだから。キャラクターを全うするのは人間ではない。

『全裸監督』では、登場人物がみなキャラクター、役割を全うしているように感じられた。相棒的役割を与えられたトシ(満島真之介)や変態プロデューサーの川田(玉山鉄二)をはじめとした村西班の面々は、いついかなるときもキャラクターを生きるだけだから、なんだか間抜けでコントに見えてしまう。対するポセイドン企画の池沢(石橋凌)や警部の武井(リリー・フランキー)も、ただただ凡庸でしょぼくれた悪役だ。

『全裸監督』でいいと思ったのは、順子を演じる伊藤沙莉と、ヤクザ・古谷を生きる國村隼。このふたりだけが、キャラクターをはみ出して俳優として、人間として生きているなと思えた。伊藤の野暮ったい走りと女優を守ろうとする言動、そして國村の狂気だけがこのドラマの良心だった。

 

「日本では先駆的な試みだから」といって擁護するのもためらわれるほどに、しょぼくれたドラマだった。

口惜(20190720)

今回もまた、下書き保存の放流。

 

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今週はなんだかうまくいかなかった。娘が発熱をして気もそぞろだったし、自分の副鼻腔炎と股ずれと仕事のなさに苛立った。妻の不調も気がかりで、何も手につかなかった。しかし、娘は38.1℃より熱が上がることなく3日で復調したし、妻は楽しいことをしっかり楽しんで進んでいる。だから結局うまくいかなかったのは全部自分の具合の悪さが原因だった。

 

梅雨寒という言葉を今年はじめて知ったのだが、そいつがひと段落してじめっとした暑さをいくらか取戻した今週は季節の変わり目に相当する変化があって、だから変化に対応するのが苦手な僕は案の定の体調を崩す。季節の変わり目には体調を崩すし、気分も落ちる。勃起だってしにくくなる。今回は動悸までした。沖縄生れの僕は季節をジャンプする筋力に乏しい。「季節に敏感でいたい」と思えるのは、感受性が豊かだからではなく、体力があるからだった。僕は穏やかで緩やかな、変化に乏しい気候を生きたい。

 

「『決断』と『迷い』」をテーマにした「りっすんブログコンテスト」に入賞したのだけれど、あまり感情が動かなかった。あの記事にはそれなりに自信があって、入賞は当たり前で、大賞取れたら20万円で洗濯乾燥機買おうなんて思っていたし、大賞は無理でも優秀賞はいけるだろ、と思っていたが結果はアイデム賞だった(それだって喜ばしくありがたいことに変わりないのだが)というのも、思いのほか感情が凪いだ理由。しかしもっとも寂しかったのは、選考委員の方々の選評をもらえなかったことだ。能町さんに講評してほしかったんだよ、僕は。例えばそれが酷評でも全然いい。読んでくれて言葉をくれたら幸せだった。アイデム賞はイーアイデムの方々が投票で選んでくれたらしく、だから選考委員たちの評価とは無関係だった。いや、嬉しいんだよ、ほんとうに。自分の文章が勝ち負けで判断され、ある程度の結果を得たことはとても嬉しい。誰かが僕の文章を他の文章と比べたうえで、評価してくれたのもありがたい。でも、やっぱり僕が求めていたのは、選考委員たちの評価の言葉だった。僕は、僕が認めていた人に認めてほしかった。彼らの評価を得るラインに到達していなかったことを突きつけられたから、僕は落ち込んだ。負けは悔しい。大賞作品はやっぱり僕のより全然おもしろかった。大賞・優秀賞へ向けられた選考委員たちの言葉は温かくて、とても羨ましかった。

 

自分の人生を書いて、それを評価されるのは痛い。自分の人生そのものに価値付けがなされたような気がしてしまうから。でも、僕は書くことでしか自分の人生を理解できないし、それを読んでもらうことでしか自分の人生を説明できない。書くしかない。自分の人生を価値あるものにするため、僕は書きつづけなくてはならない。

 

くだ巻きまいたけれど、なんだかんだ、こういう形で「悔しい」を書き残せたことは嬉しい。何の賞にも引っかからなかったら、こんなことはわざわざ書かなかった。賞をもらえたことである程度の自尊心は担保されたから、こんなふうに「悔しい」を真っ向から書けたのだ。今回のコンテストに応募してよかったのは、この悔しさを得られたことだろう。チャレンジしてみるのは、いいことだろうね。

 

 

 

 

疲れている(2016年6月11日)

下書き保存を読み返してたら、今とそんなに気分の変わらない文章を見つけたので、投稿する。

 

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賞味期限の5日切れた生卵が4個あったので、じっくり焼いて平べったい卵焼きをつくって、酒のつまみにした。酒はこないだ買って少し飲んだっきり、冷凍庫にほっぽっておいた180ml容量の瓶に入った安いウイスキー。ラッパ飲みするとき霜は溶け、水滴はフローリングに落ちる。


酔っぱらった勢いでタイピングしたらあっというまに3000字超書けた、んだけれども、あまりにもパーソナルな話題だったので、すんでのところで下書きに置いた。1円にもならないのに、己の身を切ったり家族のことを話したって、しょうがない(いままでこのブログに書いていたことは自分の基準では不特定多数の人々に言ってもいい範囲のことだったつもり)。

 

俺が大学2年の頃までは、おもしろい話に対して「オマエそれ『すべらない話』いけるよー」みたいことを言ったり言われたり、それは当然のように褒め言葉として投げかわされていたのだけれど、いまはどうなんだろう(もちろん、俺がかつて話していた「すべらない話」をいくつか思い出してみたところで、それは完全に内輪ウケのどーしょうもないものだ)。
もしかしたら最近はおもしろい小咄をいくつか持っている奴より、一発芸をいくつか持っている奴の方が強くなっていて「オマエそれVineにアップしたらバズるぜ!」みたいなことになっているのかもしれない。ひょっとしたらVineすら時代遅れかもしれない……。時代がわからない。何がおもしろいのかわからない。

 


何がおもしろいのかわからないのと同じように(?)、何を腹立たしく思えばいいのかもわからなくなってきている。
ベッキー不倫騒動を執拗に追いかけるマスコミがおかしいのは感覚的にわかるけれども、この現象に対して逐一ツイートする人たちと同じようにマスコミを糾弾するほどかっていうとそんなことないし、舛添さんのアレコレも、東京都の長にちょっとした贅沢もさせられない我々の現状がそもそも問題なんであって、舛添の人品とは関係ないんじゃないか、と思ってしまう(そう思えるのは、都に満足にお金を払えていない無職だからなのかもしれないが……)。
怒らなくてはならないことも世の中にはたくさんあるとは思うのだけれど、そういう話とは別に、そもそも怒ることすらできないニートの僕は、人間として完全に去勢されてしまった生ける屍なのかもしれない、と少し不安になる。とはいってもやっぱり、いろいろな問題に噛み付いている人たちを見ていると、なんでそこまで怒ってるんですか?と聞きたくなってしまう。


怒りは、自分が当事者になったときに沸き起こる感情であるようにおもう。問題が我が事になったときに沸騰するむかつき。権利主張のための怒り、プライドを守るための怒り、自分や自分の周りの人間を守るための怒り。
しかしそういう怒りとはあんまり関係なく、現代に生きる俺たちは、あらゆるニュースが毎日目前に提示されて、当事者になるか否か、という判断を都度都度つきつけられ、疲弊しきっているようにおもう。
そして僕はそういう疲れる状態から逃げてしまっているだけなのかもしれない。逃げれるところまで逃げよう、と。

 

 

なんだかえらく疲れている。何にもしていないのに疲れている。
何にも興味のあることはないし、かといって死にたいわけじゃないし、できればしあわせになりたいのだけれども、これといったビジョンも描けないうえ、何をしている瞬間が自分にとって救いになるのかも分からない。ただ、痛いこととか苦しいことが嫌だなあと思うだけで、でも、未来に起こりうる痛いことや苦しいことを想像して、いま、動く、という決断もできない。
自分が何を欲しているのかわからない人間がいちばんクズだって、大学時代さんざん友人と話していたのに、最後に話したときから2年近く経っても、俺はまだいちばんのクズのまんまだ。

サウナに行くようになった。

上野のサウナ「北欧」に行った。サウナを好きになったのは2017年だったが、その年の10月に逗子に引っ越したため、都内のサウナを開拓するのが億劫になってしまった。都内に戻ってからは、「マルシンスパ」(新宿)や「ホテルニュー大泉」(新大久保店)、「アクア東中野」に行くようになったけれど、それも自宅からアクセスしやすいからだった。

サウナはわざわざ足を伸ばして行くもんじゃないさ、気が向いたら行こ、なんて具合に自分の開拓精神の無さをうやむやにしてやり過ごしていたんだけど、こないだ取材でテントサウナを体験して、やっぱヤバいサウナ入っとかないともったいない、と改心した。

テントサウナはロウリュ時に120℃まで上がるハンパないシロモノだったが1分くらい耐えると慣れ、外が少し肌寒いのもあってずっと入っていたくなる心地よさがあった。これまでは、どんなに気持のいいサウナに入っても10分が限界だったから驚いた。「薪で起こす火はどこかやさしく感じるんです、まあ感覚的な話なんですけどね」とテントサウナを貸し出してくれたSaunaCamp.の大西さんは話していた。

やさしいテントサウナで体を熱してから湖に飛びこむのは一種の神秘体験。満々たる水、小雨、曇天、冷風のすべてが俺の皮膚に奉仕し、湖を囲む山々や鳥の鳴き声は祝福だった。高鳴る鼓動とは裏腹に、心はすとんと静かになる。五感はいつもより鋭敏なのに、脳は静かで、体の輪郭がぼやけていく。輪郭がおぼろげになっていくのを実感してはじめて、自分に体があったことを思い出す。だらしない肉体が自然に近づいていく感覚がうっすらとあった。ラリったのか?

 

話がいきなり逸れたが、上野の「北欧」もとてもよかった。レンガに囲まれたサウナの温度は110℃くらい、ここもまた長く入っていられる心地よさ、広いのがいい。水風呂も広くて温度がちょうどいい、足が痺れる一歩手前の冷たさ。そういえばテントサウナ取材時に、フィンランド政府公認サウナアンバサダーでもあるandropの前田さんが「水温や水質も大事なんですが、それ以上に大切なのは水量かもしれないって気づいたんです」と語っていた。水量に限っては湖に勝てる水風呂は存在しないので、サウナ好きはぜひともテントサウナに入るべき。

そして「北欧」はなんといっても外気浴スペースが広いのが最高だった。座椅子が5〜6個あったが、俺はすぐにリクライニングチェアに横たわった。空が見える。東京に生きてると、仰向けに横たわって空を見る機会はなかなかない。心臓の鼓動を感じながら、目を閉じて日光を瞼に透かしてみる。皮膚の裏の赤がわかる、もっと強く目を閉じれば、真っ暗になりやがて白が侵食してくる。伸びた髪が鬱陶しくてかきあげる。湯船に浸かっている男たちの話し声ははっきりと聞きとれるがなぜか内容はぼやけている。ととのっている間はやはり自分の体と向き合うことができる。脳はスリープして体だけがある。俺は肉体感覚が希薄だから、今のところサウナとセックスでしか、自分の体を確認することができない。運動は苦手だ。

体を起こし、少し座ってぼんやりする。2メートルくらい先に排水管の黒い穴があって、その丸を見つめていた。

 

テントサウナのおかげで、サウナ行きたい欲が高まったので、ドラマ「サ道」でサウナがいよいよ大ブレイクする前に、都内のお気にいりサウナを決めておきたいな。

 

テントサウナを取材した記事は7月25日発売の雑誌「UOMO」9月号のサウナ特集に載ります。

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生きてるって感じ

6月18日夜
Twitterでいくつかのアカウントに対して、フォローしてしばらく経つとうんざりしてアンフォロー、うんざりが落ち着くと再びフォロー・アンフォロー……というのを何遍も繰り返している。きっとそのアカウントの人は「またこいつフォローしてきやがった」とか思ってるはず、そんなにフォロワーの多い人ではないから。僕は「うんざり」させられたくて、そのアカウントをフォローしたり外したり繰り返しているんだろうか、誰かにうんざりすることで、自分の輪郭を捉え直しているのだろうか。そんな理屈すらない、なんだかただの癖だなあ。そいつのことを昨日は良いように思ったり、明日は悪いように思ったりする、ってだけ。

 

昨日くらいから著しく体調が悪くなり、ずっと横たわってるってな具合で、何も手につかない。でも、それくらいの感じ、生活やら仕事やらもうどうでもいいやって気分のときに、僕は文章書きたくなるらしい。生活礼賛はとても多いし、人生は日々の積み重ねだから生活を大切にしたほうがいいに決まっているのだけれど、どうも性に合わないっぽい。人生が合わない。

 

娘は今日もかわいかったけれど、体調が悪いのでほとんど声をかけてやれなかった、保育園までの道のりをベビーカーを押しながら、通り過ぎていくものにいちいち指差す彼女を無視してしまった、いつもなら彼女の指差した方向にあるものを言ってやる、「あれはサラリーマン」「これは電柱」「緑色」「空気」などと適当なこと。保育園に着いて、娘の正面に回ってベビーカーのベルトを外してやるとき、娘はいつもとびきりの笑顔を見せてくれる。保育園に行けるのが嬉しいからなのか、父親に抱っこしてもらえるのがわかっていて嬉しいからなのか、わからないけれど、その笑顔はかわいい。1歳児の笑顔は嬉しいなんだろうか。

 

好きな人の生き様・表現・感受性がとても好きだけれど、それは僕が僕を生きるうえではあまり役に立ちそうにないかもしれない、と思えてきた。好きな人のもっと根っこの部分-それを彼女は《魂》というんだろう-を大切にしよう。生きる、と、人生、はイコールではなさそう。生きるは運動で、人生は物語。魂は運動に宿ると思う。生きる、ならなんとかやれるだろうか。でも、生きるってちょっとものものしい。生きてる、くらいがちょうどいい。生きてる、を守るくらいしか。

 

自分の気持ちいい場所を見つけたいね、いいかげん。

 

6月19日朝方
これって言っていいことなのかな、と思い立ち止まる機会がとても増えて、それは社会の価値観が急速に変わっているからで、その《ためらい》自体はとてもいいことだと常々思っていたんだけれども、一方で自分が思ってることは「正しくないかも」と怯えて口をつぐむのは卑怯だ、という思いに至った。卑怯、は言葉が強すぎる気もするけど。

 

正しさ、に捕らわれて、自分がほんとうに思ったことを未然に殺してはいけない。「正しくない(かもしれない)言葉」を発して、他者に「それは違くない?」と言われる経験を、過剰に恐れているだけ、だったかも。まあ、他者というか、社会が、過剰に非難してくるから、自分を守るために口をつぐむのは仕方のないことだったかもしれない。けど、言葉を発しながら生きてきた僕が、いまの自分を守るために言葉を殺すのは違うよな。 

 

6月20日真夜中
自分がなんとなく手にいれたものを手放したらその両手には案外なんにも残ってなくて、清々しいような不安なような心持ちの梅雨だ。とか強がってみたいけれど、やっぱり季節の変わり目のせいなのかなんなのかよくわからないが家族みんなで体調崩したりもした、けっこうダウナーな6月。妻の咳が印象深い水無月……とか慣れない言葉使ってみたので、検索したら今年のそれは7月3日から31日までらしく、まだ未知の時間だった。水無月に入るころには妻の体調もすっかり良くなっていることだろう。鼻づまりで味がよくわからないらしい妻が、味覚を取戻したら寿司が食べたいと言っていて、ちょうど僕も今日寿司食べてえなあと思っていたから、気が合うな、と思った。眠る前に妻が「近場で良いから温泉にいきたい」とも言っていて、ちょうど僕も昨日銭湯で温泉いきたいと思ったところだったよ。

 

昨日、合計すると14時間くらい眠ったからか、今日はすこぶる快調だった。保育園の帰り道、ベビーカーに乗ってあれこれ指差す娘の手にハイタッチしたらめちゃくちゃ笑っていた。彼女は別に言葉を求めていたんじゃなくて、リアクションが欲しかったのかもしれない。言葉を持たない彼女は、触れあうほうが今はまだずっと楽しいんだろう。

 

酒を飲みたい気持も回復した。缶ビールを持ってリビングに行くと未だ咳の止まない妻が「ビール飲みたい気持戻ってきたんだね、よかった」と笑っていて、なんだかいろんな気持が混じり合って溢れそうになって泣きそうになったが、いつもの卑屈な笑いでごまかした。僕は、ふとした瞬間に自分が反射的に繰り出す防衛的な笑いがすごく嫌いで、その癖を直したいが、反射なので難しい。上手に笑う妻と、生まれ持った笑顔を放つ娘、彼女らの笑顔を汚したくないんだよ。

『The OA』パート1(2016)

共感を超えて、共鳴・協働することが運命を変え、暗闇にいる僕らを光に導く。あらゆる差異を捨象して「わかるよ」の薄い共感で仲間になったフリをするのではなく、差異や区別を乗越え、瞬間的に連帯する、そうすることで僕らは恐怖に打ち勝てる、たとえ一瞬でもいいから、そのときを待ち望んでいる。

 

『The OA』はプレーリー・ジョンソン(演じるブリット・マーリングは同作の製作・脚本もやってる)の語りでストーリーが進む。行方不明から7年後、無事生還した盲目の女性・プレーリーの口から語られる失踪以前の過去や家出の末に誘拐されマッドサイエンティストの実験台として監禁され過ごした日々、そして視力を取戻した《奇跡》が明かされていく。彼女の語りを聴くのは、地元の高校生4人と学校の先生だ。スクールカーストどころか立場までも異なる人間たちが、毎夜少しずつ語られるプレーリーの過去を聴くことで、おぼろげに心を通わせていく様がすでに感動的だ。僕らは語りに耳を傾けることで、他者の苦しみ・痛み・悲しみに想いを至らせ、その情感を共有することで連帯に向かっていく。プレーリーの過酷な体験、それが饒舌な語り口で持って再現されることで、5人の聴き手たち、そしてわれわれ視聴者は連帯していく。

 

『The OA』を「奇跡を信じることの物語」だといって肯定したり、はたまた「支離滅裂なスピリチュアルストーリー」と唾棄する感想ばかり目にしたけれど、どちらの声もこのドラマを「フィクショナル」なものとして遠ざけて見ている点において同じ穴の狢だと思った。『The OA』は8エピソード使って、語ること・聴くことを肯定しつづけているけれど、ここにはノンフィクションでドキュメンタリーな手ざわりがある。夜な夜な空き家で車座になってプレーリーの話を聴くこの会合は、依存症患者やトラウマ体験を持つ者たちが互いに語りあう自助グループに似ている。話すことで癒しを得るのはもちろん、聴き手も聴くことで痛みを分かちあい、自らの問題とも自ずから向き合っていくだろう。

2018年のアメリカ国内の行方不明者数は60万人を超える。プレーリーの行方不明はアメリカに住む者にとって、決して人ごとではないリアリティがあるのかもしれない。登場人物の高校生たちは、親にネグレクトされていたり、LGBTであったりする。生活にはドラッグが当たり前に溶けこみ、個人の尊厳は緩やかに殺されている。『The OA』で監禁される5人、空き家に集まる6人は、寄り添いあうことで互いの孤独を繋ぎあわせ正気を保ち、生きるほうを選んでいく。アメリカ、ひいては世界中にはびこる断絶した孤独に光を当て、ふたたび繋ぎあわせようとしているのがこのドラマで、だからこれは荒唐無稽な話でもなければ、奇跡のおとぎ話でもない。あくまでもアクチュアルで切実な癒しのドラマだ。『The OA』ではたしかに臨死体験や死者の再生、異次元へ至るアクションといった一見“非現実的想像力”が駆使されているけれども、それはあくまでも現実にアクセスするための入口に過ぎない。現実世界を描くには、科学だけでなく、想像や空想の力が必要だ。だから一見スピリチュアル、というだけの理由でこの物語を忌避しないでほしい。極限状態で“5つの動作”をシンクロさせ協働する彼らの躍動を見れば誰もが撃ち抜かれるのだから。

 

余談になるけれど、なんとなく『The OA』はビリー・アイリッシュの音楽に通ずるものがあると感じた。重低音のなかで言葉のひとつひとつを慈しむようにささやき歌うビリー・アイリッシュを聴くときと、人間とは無関係に屹立する色彩鮮やかな世界の中でプレーリーの語りに耳を傾けるとき、僕らに訪れるフィーリングは同じだ。絶望のなかで生きるのが当たり前になってしまった僕らを癒してくれるのが、ビリー・アイリッシュや『The OA』ではないか。