ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

見てるから

坂元裕二脚本の『Mother』を今さらながら見ました。芦田愛菜と田中裕子凄まじかった……。

松雪泰子が逮捕されたところで「こんなだったかな、少し小さくなった」と手を握りながら言われた田中裕子が「あなたが大きくなったのよ」と返すところの横顔クローズアップには戦慄。走馬灯を楽しみにしている田中裕子、ほぼほぼお化けだった。あの顔の造形や表情、溝口健二みがある。

お化けといえば芦田愛菜も、彼女を取り戻すために東京へやってきた尾野真千子に「あのね、ママ、れなは天国に行ったの」と宣告する。怖ろしい脚本だ……。しかしラスト手前、第10話で芦田愛菜は施設から松雪泰子に電話をかけ「お化けっている?  怖くて寝れないの」と言う。お化け怖いって言えてよかったね。大丈夫だよ、お母さん見てるから。

 

「見てるから」と言われたことが、ぼくにもある。実家のトイレは廊下の先にあって、子供のころのぼくはそこへ行くのが怖い夜があった。「トイレ行くの怖い」と言うと母は「お母さんが見てるから大丈夫」と返す。しかしダイニングにいる母から、トイレまでの通路は物理的に目が届かない。母はダイニングから動こうとせず「見てるから」と言うだけだ。

それでも、あのころのぼくは、母の言葉を信じていた。見てるから、と言われると、本当に見てくれているような気がした。トイレの扉の前にたち大きな声で「本当に見てる!?」と聞くと、母は「見てるよ!」と大きな声で返事をする。なんでお母さんにはちゃんと見えてるんだろうと思っていた。信じきっていた。見えるわけないだろ、と思うころには、ひとりでトイレに行くのが怖くなくなっていた。

 

しかし、このごろ母のことを思い出す時間もほとんどない。声を思い出せなくなった。母の声の入った動画なんか持ってたらよかったのだけれど、ぼくはそういうの撮ってなかった。

妹のスマホには、留守録に残る母の声が保存されていた。母が亡くなって少し経ったころ、一度だけ聞かせてもらった。すごく、寂しそうな声だった。

 

『Mother』の田中裕子と松雪泰子は、最後に心を通わせることができてよかった。ぼくは、最後のころだけ母と心が離れてしまった。「見てるから」はまだ機能しているだろうか。

 

 

『Mother』好きだったのは第6話「さよならお母さん」。号泣した。結局、この回で芦田愛菜松雪泰子に送った手紙の言葉「ひとりで大丈夫だよ」「お母さんずっと大好き」を、最終話の松雪泰子はなぞっているに過ぎない。

あと、「すきなものノート」はとってもいいアイディアだな。このブログも「すきなものノート」のようにしたい。

食べ終わったらすぐ食器洗いした方がいい

夫婦のあいだで、食器洗いはぼくの担当だ。妻が夕飯を作ってくれた日も、ぼくが作った日も、基本的にはぼくが食器を洗う。料理が下手なぼくが、少しでも家事に貢献したいと思ったら、慣習化した。

 

たまたま3日連続でぼくが夕飯を作った、とは言ってもカレー、ラーメン、キムチ鍋。ぜんぶ市販のルー、袋麺、鍋の素を使っているから大したことじゃない。まあ、包丁は握ったし火も使ったのでちゃんとした自炊ではある、ぼくはえらい。

 

で、食器洗いの話。昨日は夕食後も仕事があったので、仕事が済んでからやろうと思い、食器は流しに置いておいた。しかしいざ仕事が終わると眠いので、明朝やることにして寝た。

昼前に起きた。昼ごはんはコンビニで買って食べた。夜になる。昨日使った食器はまだ流しの中にある。

食器洗い、すごく億劫だ。今日は鍋をやろうと思っている。その前にこの洗い物を片付けなくちゃならない。つまり今日は《昨日の食器を洗う→今日の晩飯を準備する→今日の食器を洗う》という流れ。一度の料理において、二度の食器洗いが必要になってしまった。

昨夜食べてすぐ洗ってしまえば《晩飯作り→皿洗い》で完結したのに。少し怠けたがために、昨日のタスクが今日のやる気を侵食している。

 

ここで気づいたのは、一人暮らしのときなぜ自炊が続かなかったか、ということ。自分のために飯を作り、食べ、片付ける。当時のぼくは、食べてすぐ片付けるのが、なんかイヤだった。めんどくさいからというよりは、惨めな感じがしてしまうからだ。食べてすぐ食器を片付けて洗うなんて情緒がない。食事が作業的に感じられる。

ということで、食器は放置した。しかし、時間が経ったら洗うかといえば洗わない。食べ終わってしばらくすると、その食器を洗うのは、先の食事とは関係のない単発の作業になってしまう。「作業的」を厭うたがために、「作業」する羽目になっている。言葉にしてみるとバカバカしいけど、当時そういう現象が起こっていたのだ。

食器や調理器具は翌日もそのまま。その光景を見ると食事を作る気は失せる。料理が後片づけから始まることを無粋だと思ってしまう。そしてせっかく芽生えた自炊欲もどこへやら、コンビニに弁当を買いにいく。多めに買っておいた野菜や肉は冷蔵庫の中でくたびれていき、シンクの食器に溜まった水からは小蝿がわいてくる……。小蝿のわくような皿はすごく汚いので、通常よりも入念に洗う、時間がかかる。食器洗いが嫌いになる。

この悪循環に陥っていること、ひとり暮らしのころはわかってなかった。

 

食事後の「ちょっとめんどくさいな」の気持ちは殺す。情緒がないとかわけのわからないこと言ってないで、さっさと洗う。そうすることで、明日の食事作りをラクな気持ちでスタートできる。《料理→食事→後片付け》をひとつの塊として認識する。そうすれば、比較的ラクになる。

明日のやる気を守るために今夜ぼくは食器を洗う。

 

 

推すということ 「リトル・ミス・サンシャイン』と『マジカル肉じゃがファミリーツアー』を見て思ったこと

リトル・ミス・サンシャイン』を見た。ミスコン「リトル・ミス・サンシャイン」の予選を通過した少女オリーヴを、決勝大会が開かれるカリフォルニア州のとあるホテルに送り届ける家族のロードムービー。この旅を通して、バラバラだった家族の気持ちは少しずつひとつになっていく、みたいな話。

クライマックスはもちろんオリーヴのミスコン審査場面だ。道中オーバードーズで死んだおじいちゃん直伝の卑猥なダンスで、オリーヴは由緒あるミスコンの雰囲気をぶち壊していく。そのとき、オリーヴの家族はステージ上の彼女を、客席から猛烈に応援する。それどころか、ステージに上がって一緒に踊りだす。オリーヴのダンスによって凍りついてしまった会場の雰囲気を打ち破り、娘であり妹であり姪っ子であるところのオリーヴを守るため、家族は団結してステージで道化を演じる。

 

このシーンに、「推す」という行為の本質の一端を垣間見た気がした。

 

男性陣はオリーヴがパフォーマンスする前、他の出演者たちを見てオリーヴは絶対に勝てない、それどころか笑い者になる、と青ざめて、オリーヴの出演を止めようとする。しかし母親は納得しない。オリーヴを絶対にステージに上げるという。そして彼女はとうとうステージに登場する。

男性陣の予想通り、ちんちくりんなオリーヴの「卑猥なダンス」は会場の顰蹙をかう。退席する観客も続出する。それでも、大好きなおじいちゃんが自分に遺してくれた振付をオリーヴは踊りつづける。彼女のひたむきなパフォーマンスに家族は胸を打たれ、彼女を必死で応援し、終いにはステージに上がって、一緒に踊りだす。

 

オリーヴの家族がやっていることは、アイドルを推すファンたちと同じように見えた。周りがどんなに非難しても、わたしたちはあなたを支えます、推します。そういう(理想的な)アイドルヲタの心境が『リトル・ミス・サンシャイン』では具現化されているように思えた。

 

ぼくが『リトル・ミス・サンシャイン』を見たのは、ロロの『マジカル肉じゃがファミリーツアー』は『リトル・ミス・サンシャイン』っぽいかも、という感想文を読んだからだ。

たしかにぽい部分があった。のど自慢大会に出たお母さんにお父さんが拍手を送り、周りの観客(ぬいぐるみ)たちにも声援を送るよう促しているところだ。

どちらの作品でも、下手くそなパフォーマーに対して多数の観客はそっぽを向いてしまう。それでも家族はパフォーマーに声援を送る、推しつづける。

 

さいきん、観客と演者、ファンとアイドル(いわゆるアイドルだけでなく)について考えてしまう。もちろんぼくは観客やファンの立場としてしか、この関係性を考えることはできない。演者/アイドルにとって理想的な観客/ファンとは一体どんな存在だろうか。その答えのひとつが、『リトル』の家族と『マジ肉』のお父さんだと思った。そのパフォーマンスの出来とは関係なく(まったく関係ないということもないだろうけど)、そのひたむきさゆえに推す。この2作において推す理由は「家族だから」という一点に尽きる。でもニワトリタマゴな話でもあって、そういうひたむきさを愛してしまったから、彼らは家族になったという見方もできるかもしれない。

 

ぼくは、あなたがたがひたむきである限りにおいては、あなたがたを推しつづけるだろう。

ぼくも、ひたむきでありさえすれば、誰かに推してもらえるのかもしれない。

大森靖子「MUTEKI弾語りツアー」ファイナルin中野サンプラザ 〜頭で考えるよりも先に撃ちこんだ雑感〜

大森靖子MUTEKI弾語りツアー」のファイナル公演に行った。個人的には約3年ぶりの中野サンプラザ、前回は大森靖子のファーストアルバム『洗脳』ツアーのファイナルだった。

 

今日のMCでも言ってたけど、大森さんはあのとき妊娠を隠してライブをしていた。そのときお腹の中にいた子供が今朝、部屋を散らかしていたという「家庭のグチ」を漏らし笑っている大森さんを見て、時が経つのは早いな、とありきたりなことを思った。

今日のライブでは『洗脳』収録の楽曲がひとつも弾き語られなかった。特に意味はないんだろうか、あるんだろうか。

 

Zepp DiverCityでだったと思うけど、大森さんは「この規模でもひとりひとりとコミュニケーションできる!」と語っていた。もちろん今日もサンプラザ中野に集まった2000人のひとりひとりと対話を試みていた。ステージから降りて、お客さんが「剃刀ガール」を一曲まるごと歌っているあいだ、大森さんはギター伴奏に徹した。ふつうの人の(とはいえとても上手だった)歌声が、中野サンプラザに2分も響きわたる。大森靖子のライブではこんなことが実に当たり前に起こってしまう。

正直、大森靖子の歌が大好きで楽しみにしてライブに行ってるのだから、知らない人の歌声を聞いているうち、少したじろいでしまった。大森さんがMCで旧知のファンとだべっているのを見るのは微笑ましくも自分が蚊帳の外に置かれたような気になってしまう。でも、やっぱり、こういうファンとの関係性も含めて《大森靖子》なのだった。

 

ぼくは、今回のMUTEKIツアーはファイナルしか行ってない。タイムラインに流れてくる地方で行われたライブの感想を見る限り、各地で濃密かつ親密な、秘密の時空が生まれているようだった。選ばれたライブ会場はどこも個性的で素敵なライブハウスよりも比較的小さなハコばかりで、それがまた大森さんとファンとの距離を近づけていた。その延長線上に今日の中野サンプラザがあったのだから、あのゆるくて軽くて日常と地続きなMCの時間も、「MUTEKI弾語りツアー」のパフォーマンスのひとつだったのだ。今回の弾語りツアーはおそらく密室感のあるもので、それが中野サンプラザの大きさでも実現された。中野サンプラザアジールと化した、そのことに驚こう。

 

 

荒涼な大地に吹き荒れる強風のようなSEの流れる中ステージに現れた大森さんは「M」をピアノ伴奏で歌う。『洗脳』ファイナルのときは、SEが「私は悪くない」で、あの悲痛な「大森靖子たち」の声の重なりに否応なく鷲掴まれて泣いてしまい、そこからの「PINK」絶唱によって引き込まれた。でも今日のスタートはすごくゆるやかで、中野サンプラザの雰囲気と大森さんのチューニングを合わせるような冒頭の流れだと感じた。3曲目の「夏果て」あたりからチューニングが合ってきて、「キラキラ」のころにぴったりだった。

大森さんはピアノの上に置いたスマホを触りながら、聞こえるか聞こえないかの小さな声で《できるかな、できるかな》と口ずさんだあと、「POSITIVE STRESS」をパフォーマンスした。ピアノの弾語りで初めてやったというこの曲は、小室哲哉の作曲だ。ピアノと歌だけで聞くとこの曲の骨格が露わになっていて、昨日ひたすらにglobeを聞いた耳にとてもグッときた。特にサビのピアノのglobe感に鳥肌が立った。

しかしなんといっても歌い出しの「カリスマ全滅 あたしの大切はひみつ」だ。カリスマもアイドルも次々と倒れていく。

大森さんは最後の方のMCで「アイドルが『有名になって見返したい』とか言うけど、有名になんてやらない方がいいですよ」と言った。有名になったら何も事情を知らない人間にまで見つかってしまう。何も知らない人間に通り魔的に傷つけられる。大森さんはその痛みを身をもって知っている。

今日は歌われなかったが、「わたしみ」の歌詞は須藤凛々花の「結婚宣言」を見てから書いたとも話していた。《わたしのたいせつを たいせつにまもれるのは わたしだけ》。そうやって結婚を選んだ須藤がなぜ非難されるのか分からないのだと。

 

《やばい噂も 消せない歴史も 刻んだ身体で立ってる 私は私よ》。大森さんが引き受けようとしているものは、あまりにも大きい。無自覚で無邪気でインスタントな無数の憎悪に社会はまみれている。

あんなに大きな魔法陣をバックにしなければ立ち向かえなくなるかもしれないほどに、集合した憎悪は巨大だ。

《世界はもっとおもしろいはずでしょ》そう言って「洗脳」を開始した大森靖子は今のこの社会をどう思うのだろう。聞いてみたい。

 

今日聴けてよかった曲は「POSITIVE STRESS」の他には「流星ヘブン」、「みっくしゅじゅーちゅ」、「最終公演」、「魔法が使えないなら」でした。流星のアルペジオめちゃくちゃ美しかったし、「みっくしゅじゅーちゅ」は本当にキュートだ。《お願い 君と私はほらもっと 君か私かわからなくなるほど CRAZY CRAZYに溶けて》という歌詞は、「POSITIVE STRESS」の《私は私よ》と一見矛盾するようだけど、響きあう。

「私は私」「あなたはあなた」という個の絶対性があるからこそ、私とあなたが溶け合うことの官能が引き立つ。「絶対彼女」では今日もまた観客を細分化しながら観客全員に声を上げさせようとしていたけど、誰もが《私は私よ》と叫ぶことで、「サイレントマジョリティー」は解体され、《君は君らしく生きて》いける。でもこの道のりは《ときには孤独にもなる》から、ぼくらは愛欲に身をゆだねる。

しあわせな生活にも、愛と孤独は当然のように混在する。愛があっても孤独だし、孤独でも愛はある。孤独と愛は並存する。

 

「最終公演」と「魔法が使えないなら」は、ずっと大森さんが大切に歌いつづけている曲で(「最終公演」はkitixxxgaiaツアーでもセットリストに入っていて驚いた)、歌いこんだ歴史によって楽曲の強度が増していて、感動してしまった。《エモい》に流れず、淡々と歌われていたのに、この2曲には圧倒的な存在感があった。中野サンプラザに響きわたったこの2曲は間違いなくこの日のハイライトだった。

《魔法が使えないなら死にたい》は「魔法が使えるから死なない」だ。魔法は積み重ねのうえに生まれるのかもしれない。

 

 

大森さんは頭で考えるよりも先に喋ってしまう、ツイートしてしまう、と言っていた。そのあとで、自分の中の理性の部分が、発言を追いかけていくのだと。

ぼくもそれくらいのスピード感でもってバンバン乱射していきたいと思った。たとえ社会的に間違っているとしても、自分が思ったことを大切にしたい。

 

 

美しいぼく

ぼくはずっと不幸を知りたかったのだと思う。だからニートになったのだろう。でも、それが偽りの不幸だとしても、アナグラにいちど落ちると、這い上がるのはなかなか難しい。そこは暗くて孤独でつらかった。ぼくはたまたま書くことで誰かと繋がれて、その先には結婚まであった。ラッキーだ。今はもう、ただただしあわせが継続することを祈りつつ、PCを凝視し、指を動かしつづけている。

「世の中はくそったれ」らしい。ぼくにはそのことがよく分からない。このブログで何回か「世の中はクソだ」的な物言いをしたことがあるけれども、それは本心ではなかった。いや、瞬間的には思ってたのかもしれない。でも、ぼくは絶望を知らない。誰かが世界に向けるくそったれの嘆きをなぞっていただけだ。

不幸を経由しないと、高みに登ることができないと錯覚していた。
中流家庭集団のトップに位置する家庭でぬくぬくと育ててもらい、なんとなく上京して大学に通い、テキトーにスクールライフをうっちゃってる自分が心底イヤだった。不幸を知らないぼくが、自傷的にニートになったというのが、これまで人生に対するひとつの視点だ(そもそもニートという選択がぬるいということにも、当時のぼくは気づいてなかった)。
もちろん、他の視点もある。けれども、そんなことはもういちいち書かない。問題はいつだって複合的で、だから立ち止まったぼくらは問題をためつすがめつし、それをぐるぐる周回してしまう。でも、大抵の場合は問題から離れてしまった方がラクになれる。そのとき軽い気持ちで振り返ってみれば、岩山は全体像を明らかにする。そうだ、問題は岩山のようなもんだ。ハナっから登れるわけない山を眺めて、どうやって征服すればいいんだ、と懊悩する時間とたわむれていたにすぎない。もちろん、登れる人間もいるんだろうが、ごく限られた人間だけだ。
ニートだったころの自分をかんたんに思い出せる現在地よりも、もっと遠くに行くまで、あのころのことなんか振り返るべきではないのだ。時間もないのだし。高く登ることだけが価値じゃない。

 

ぼくには世の中がくそったれだという意味がよく分からない。社会はたしかにくそったれなのかもしれない。いろんな酷いことが起きている。でもそれはニュースの話で、ぼくのリアルはぜんぜん汚染されていない。
社会なんてクソみたいなもん肥料にして、世界はもっと咲きほこっているように思える。平和ボケなんだろうか。

ぼくは27歳なのに、いまだに社会をよく知らない。いままでそれをコンプレックスに思っていたけど、たぶん幸運なことなのだ。幸運はこれ以上はつづかないのかもしれない。ぼくはこれから、クソを見ることになるのかもしれない。
まあ、そのときはナイーブに嘆いてみせよう。そのためにも、いまのこの肺を清く保っておきたい。何も自らすすんで粉塵を吸いこむ必要はないのだ。ぼくは美しい。

 

そういう気分なんです。

 

 

 

 

 

トイレは落ち着く

トイレに入ってるとドアの向こうで猫が鳴く。鳴かれながらだと、トイレでゆっくり、なんて気持ちにもなりにくく、用が済んだらさっさと出てしまう。

 

トイレに長居してしまうタイプだ。トイレは落ち着く。これはひとり暮らしの時もそうだったし、外で用を足すとき変わらない。狭い個室のなかは、いつでも出られるという保証がある場合にはとてもリラックスできる。本を読んだりスマホを見ていたりすると、あっという間に30分はすぎてしまう。

タモリが「トイレで読書は理にかなってるんだよ、出しながら入れるから本の内容が頭によく入る」みたいに言ってるのを聞いて、トイレで本を読む自分は間違ってないんだと思った。

 

「トイレに長居」は、お尻によろしくないらしい。便を出そうと力んでなくても、パンツをおろして便座に座れば自然に肛門に圧がかかるとかなんとかで、痔になりやすいとかなんとか。ぼくは痔持ちなので「トイレはサッと済ませてください」と医者に言われるのだけれども、トイレはやっぱり落ち着く。ぼくにとってトイレは喫煙所みたいなものなのかもしれない。

 

ぼくや妻がトイレに入っていないときも、猫はトイレの前に座って鳴くことがある。トイレのドアをガシガシと叩いたりもする。猫もこのトイレで落ち着きたいのかもしれない。自分のトイレは落ち着かないのだろうか。自分のおしっこやうんちまみれの砂の上ではリラックスできないか。ぼくはやっぱり和式便所だったら用が済んだらすぐに個室を出てしまうな。

ビール飲みたい

痔が悪化したので、病院に行って処置してもらった。それが1月4日のことで、それ以来酒を飲んでいない。もう5日目になる。

飲みたい。ビールが飲みたい。さっき、尾野真千子が瓶ビールをビールグラスに注いで飲んでいる映像を見てしまって、羨ましかった。

 

ビールの何がおいしいんだよって子供に聞かれたら僕は「子供にはわかんないだろうなあ」と薄ら笑いを浮かべてごまかすだろう。あれをどうしてうまいと感じるのか、僕にはてんでわからないからだ。理由はわからないけど、やっぱりビールはうまいと思う。単に中毒な可能性もあるけど。

 

酒を飲まなくなると、代わりに清涼飲料水を飲んでしまう。コカコーラ、ジンジャーエール、スプライト、リプトン、そういうのを飲んでしまう。

今日は朝のゴミ出しのついでにコンビニに寄って、午後の紅茶 レモンティー ホットを買った。帰りながら飲んだ。これが、ぜんぜんおいしくなかった。

午後の紅茶 レモンティー ホットは、甘ったるいだけの生温かい砂糖水で、そこにはレモンの風味なんてちっとも感じられないし、それどころか紅茶を知覚することもできなかった。あんなに好きだった午後ティーのことが、もうこれっぽっちも好きじゃなくなってた。中学生のころからずっと飲んでた午後ティー、その味がもうまったく受け入れられないのだった。

午後の紅茶 レモンティー ホットが気に食わないのは、甘ったるくて、「レモンティー」と銘打ってるのにちっともレモンも紅茶も感じられなくて、「おれはいったい何を飲んでいるんだ」という不安にさいなまれるからだ。単純明快。

 

午後ティーが受け入れられなくなった理由は説明できるのに、ビールを好きな理由はぜんぜん説明できないのは、なぜなのか。説明できる気がしない。というか、ビールを飲めない今、僕はビールの味を思い出すことができない。ひょっとして僕はビールをちゃんと味わったことがないのかもしれない、とまで思えてきた。「ビールはのどごし」だなんていうけど、確かに僕は舌で感じてなかったのかもしれない。はやくビールを飲んで、ビールのことを思い出したい。

 

ビールを飲んでいる時間はあっという間に過ぎ去り、飲めないときにはひたすらに恋しくなる。

今度ビールを飲めたそのとき、僕がその味を「とらえるぞ!」と力んだと同時に、ビールはするするっと喉の奥に逃げていくんだろう。それを僕はきっと好ましく思うだろう。

もしかしたら僕は、ビールそのものではなく、ビールを飲むという行為を好いてるのかもしれない。「恋に恋してる」みたいな少年少女のように。

 

酒を飲まなくなって5日目、指のむくみがとれたのか、結婚指輪がゆるくなったような気がする。