ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

正月とおじさんとクロちゃんのこと

年末年始を実家から遠く離れたところで過ごすのは初めてだ。去年は大森靖子のカウントダウンライブに行ったので、年越しの瞬間は東京にいた。でも1月2日には沖縄の実家に行ったので、東京で年末年始を過ごしたという気分にはならなかった。

今年は妻とふたり、東京から少し離れたアパートで年末年始を過ごしている。猫もいる。

人生ではじめて年越しそばを食べた。沖縄にいるころは、沖縄そばを「年越しそば」と呼んで食べていたのだけれども、今年はそば粉でできたそばを啜った。沖縄そばよりも啜りやすくて、「麺を途中で噛みちぎっちゃダメ」という教えを守りやすかった。沖縄そばは太いので麺の半ばで噛みちぎりたくなる。

妻はお雑煮も作ってくれた。濃い味でとてもうまかった。

 

コンビニに行こうと家を出たら、いつもより上手なピアノの音色が聞こえてきた。どこかの家に、いつもピアノを弾いてる少女よりも、おねえさんのピアニストがやってきたのだろう。きっと、その家の少女はいとこのおねえさんに憧れてピアノを始めた。一年に一度、会うお姉ちゃんの音色を追いかけて、少女はピアノを毎日弾き続けているんだろう。昼間、家の中で過ごしていると聞こえてくる拙いピアノの音色が、いっそう愛おしくなる。

 

コンビニでは若い男が4人して酒を物色していた。「そんなに飲まねえよ、明日おばあちゃん家行くんだよ」と言っている男がひとりいる。きっと大学生の彼らは、ふだんはちりぢりで、今日は近況報告しながら酒を飲むんだろう。

 

今日は焼肉を食べに行った。寝正月なので、久しぶりに外気に触れると、とても清々しい。焼肉屋はにぎわっていた。近くのテーブルではどこかのプロチームに入団が決まったサッカー選手がいた。マネジメントはどこの会社なのかとか、マレーシアでは月給200万円もらえるらしいとか、なんだか具体的な話をしていた。

 

正月早々、「メンヘラおじさん」について考えなくてはいけなくて、少し気が滅入る。手はじめに鈴木涼美『おじさんメモリアル』をパラパラと読んでいたら、暗澹たる気持ちになる。


「性と愛を混同して病む男」とか「顔が若干よかろうが脂ぎっていなかろうが禿げていなかろうが、等しくオヤジはオヤジであり、オヤジはオカネである」、「おじさんの『俺が女にしてあげる』癖はひどくなる一方だった」などなど、キラーフレーズが満載。
僕もすぐにおじさんになる、というか、メンタリティーはわりとおじさん寄りだと思う。


結婚してよかったことはたくさんあるんだけど、そのうちのひとつに「恋愛から降りられてよかった」というのがある。もう僕は妻以外の人間と恋愛しなくていいのだと気づいたとき、とてもラクになれた。
不特定多数の女性により良く見られたい、つまり「モテたい」と思って空回りしなくて済むのだ。別にモテるために努力したことはないけど、女性と相対するときはやっぱり変に意識してしまって、気の利いたこと言わなきゃとか思ってしまったものだが(言えた試しがないのに)、これからはそんなことを一切気にしないで生きられるのだ。


年末「水曜日のダウンタウン」の「フューチャークロちゃん」に笑いながら「これは俺のことだ」と思った男性は少なくないはずだ。
ヒコさんはかつて「クロちゃんの”歪さ”に対して、何かこう根源的なシンパシーのようなものを覚えてしまったのだ。だって、私も貴方も、ああならないとは言い切れない」と書いていた。

すごくよくわかる。クロちゃんは《男》の業を煮詰めて固めた結晶体だ。
僕に小金があったら、クロちゃんみたいにバカラのグラスをプレゼントしていただろう。
この歳だから間接キスに対してなんの思い入れもないが、小学生のころはやはりあの娘の「リコーダー」に対して欲情の萌芽を感じた。
クロちゃんの嘘ツイートのように、いつだって自分のことを実際より少し良く見せたいと思ってしまう。

クロちゃんがすべてをさらけ出してくれるおかげで、僕らは凡人は救われているのだと思う。
レイちゃまにフラれたあと、タクシーの後部座席でうなだれるクロちゃんの姿に、『マスター・オブ・ゼロ』のデフを重ねてしまってグッときた。

 

なんだか、おじさんの話をしてしまったがために、書きはじめたときの目論見とは違うところに文章が進んでしまった。

あけましておめでとうございます、今年もよろしくお願いいたします。

2017年、このブログで思い入れのある5つの記事(プラス1)

ブログを書きはじめて2年目。今年は1年目の半分しか記事を書けなかった。今年の半ばあたりから、フリーライターとしてぼちぼち仕事をもらえるようになったことや、今年のはじめ、恋人ができたことが理由だ。恋人とは11月に結婚したので、いまは妻である。

仕事で文章を書くようになったことで、ブログに割ける時間、体力、気力が減ったこと。そして恋人ができて孤独から脱出し、ブログで孤独に酔う必要がなくなったこと。それがここに文章を残す機会が減った理由だ。

 

でも、100記事以上は書いたので、今年思い入れのある記事をここにまとめておく。

 

僕の幻を実現させた恋人との散歩についての文章。付き合い始める前から、僕らはよく歩き、よく飲んだ。いっしょに歩いて楽しい人となら、一生いっしょにいられるな、と思った。いま、妻とはとても風の冷たい町に住みはじめたこともあって、なかなか散歩の機会には恵まれてない。春が来たら、また歩きたい。

 

これも同じく散歩記事だけど、これは一人きりの散歩。読み返して、この記事はとてもよく書けていると思った。同時に、僕はもう当分こんな散歩をすることはないのだろうな、と少し寂しい気持ちにもなった。ニートだからできた、気楽な甘く切ない散歩だ。このころの僕はまだ、世界の傍観者だった。今はひとりのアクターとしてあくせくしている。別に、この時代に戻りたいとは思わない。ひとつの区切りがついたんだな、という感慨がある。

 

これは大森靖子さんとYogee New Wavesの件が炎上したときに書いたものだ。僕はまったくYogeeに思い入れがなく、大森さんにしか感情移入しようがなかったのだけれど、インターネットでは「大森靖子ファンはもっとお互いの言い分とかちゃんと読んでから発言した方がいいと思う」みたいな冷ややかな発言が飛び交っていて、とても違和感を持ったのだった。
僕は、大森さんのファンだし、大森さんには恩すら感じているし、どんなことがあっても、大森さんと反対側に立つことはないと思う(大森さんからしてみたら、反対に立ってしまってることはあるかもしれない)。
その人のことをほんとうに愛してるなら、その人に非があるときは、ちゃんとたしなめないと、とかお利口なこと言う人にはアホかよって思う。愛は歪だし、愛している人が傷ついてるときには、たとえその人が過ちを犯した結果傷ついてるのだとしても、まずは寄り添いたいと僕は思う。愛っていうのはそういうことだと思うのだ。
それに大森さんはこのとき何も間違っちゃいなかったのだからね。
余談ですが、Yogee New Wavesに言及するときに「Yogeeなんちゃら」と書いてしまう人にも首を傾げてしまう。そういうのは、ちょっと下品だなと思います。

大森靖子「私は、死ぬことの希望よりも生きる方を選んだ」 「大森靖子VS大森靖子&シン・ ガイアズ」ライブ・レポート – DE COLUM

あと、大森靖子関連でいうと、今年はついにライターの仕事して、大森さんのライブレポを書かせてもらえたのが、本当に嬉しかった。
このライブに赴く前、僕は妻と婚姻届を出しにいったのだった。
ライブレポの仕事が決まる前から、11月22日は、婚姻届を出してから、大森靖子のワンマンに行こうと、妻と約束していた。だから、大森さんのライブレポ書きませんか?と媒体に言ってもらえたとき、実は少しためらってしまった。結婚という人生の節目の日、妻と二人きりでライブを見るはずだったのに、それが叶わなくなってしまう。それは少し寂しいことじゃないか。
でも妻は、「大森さんだよ!他の仕事だったらともかく、一番好きなアーティストについての仕事ができるチャンス逃しちゃダメだよ」と言ってくれた。

結果、多くのファンの人に読んでいただけたし、大森靖子のバンマスを務めるsugarbeansさんには、「とても素晴らしかったです!ちゃんとやっていることが伝わっていて、音楽やっててよかったと思いました。ありがとうございます」とまでリプライをもらえて、感無量でした。ほんとうに嬉しかったな。
2017年11月22日を裏切らないように、一生を生きていきたいと思う。

 

結婚しました、と報告したら、思っていたよりも多くの人に「おめでとう」と言ってもらえて驚いた。人びとに混じりけなく祝われた経験がなかったので戸惑うと同時に、とても嬉しかったです。僕は何かを頑張って達成したり、成功したりしたことがないので、お祝いの言葉をかけてもらったことがなかったのだ。
ブログを書きはじめた2016年1月、2年足らずで結婚するとは思わなかった。でもまあ結婚は愛し合っていて、紙さえ出してしまえばできちゃうわけなので、結婚はここから先が大事なんだろう。大森靖子の楽曲「オリオン座」には《最高は今 最悪でも幸せでいようね》という歌詞がある。結婚する前からずっと最高なんだけど、長く連れ添っていれば、「最悪」だなって日もあるだろう。それでも幸せでいられるように、毎日を共に生きていきたい。

 

最後はこないだのこれ。ブログを書きはじめてからの2年弱をわりと丁寧に書いてみたつもりです。きっかけはなんであれ、手を動かしはじめてから、僕の人生は動きはじめた。立ち止まることに意味を見出してしまってはいけない。時には立ち止まることも必要なんだけど、立ち止まりすぎると、久しぶりの一歩を踏み出すのがとにかく億劫になる。
この記事を書けたから、僕はニートだった自分を忘れずに済むだろう。

 

いろいろ思い入れのある記事をあげたけれども、ブログの記事に限っては2〜3時間で書き上げたものばかりだ。来年はもうちょっとがっつりと文章を書いてみたい。下書きして、寝かせて、書いて、推敲したい。書くことは生きることだ、とか言ってみたいので。

 

よいお年を! というか、よい年にしましょう!

あ、あと、結婚してお金が欲しいので、何かライター仕事ありましたらお声かけください。

僕ん家の猫はキジトラ

おととい猫が病気した、膀胱炎。

おとといの前日から、猫はあんまりおしっこをしなくなって、元気をなくしていた。夜には粗相をするようになって、おとといの朝、僕はおしっこのにおいで目を覚ました。

もうまったく元気がなくて、気が気でなくなり、ネットで調べた。猫が一日おしっこをしなかったらすぐに病院に連れていってください、とばかり書いてある。死にも直結する事態らしい。午後一番で病院に連れていくことにした。病院が開くまでのあいだも、猫はぐったりするか、トイレに行くかだった。でもトイレでは排尿できないらしく、フローリングやソファの上で漏らしてしまうのだった。

 

僕は、4歳になるこの猫と暮らしはじめて、まだ3ヶ月。妻の連れ猫である。
だから、できれば妻といっしょに動物病院に行きたかった。妻もそうしたがった。
でもその日の妻は、もともと仕事が休みだったけれども、体調がすぐれず、ふせっていた。けっきょく、午後になっても妻はとてもだるそうで、僕はひとりで近所の動物病院に向かうことにした。僕ひとりで猫をゲージに入れるのは無理なので、妻に手伝ってもらった。

 

近所といっても、歩くと10分くらいかかる。病気の猫を歩いて運ぶのは心配だから、タクシーを呼んだ。僕は車を持たない。

 

病院に着き、猫の情報を問診票に書く。しかし、僕は彼の毛の色もわからないので、空欄で出した。オスで4歳で、昔になんらかのワクチンを打ったらしいことだけしか分からない。
診察室に入り、診察台の上に猫を乗せた。とりあえずカテーテルをいれて、尿を抜くとのことだった。尿と血液の検査をする。腎臓に影響が出ていないか調べられた。

オスで去勢された猫の尿道はひどく細く、もろいという。水を飲む回数も減ってしまう冬には、尿が濃くなって結晶ができる。このとき猫の尿はキラキラするという。キラキラしても、猫の尿はとても臭う。

 

カテーテルで尿を抜いていく。注射器5〜6本分の尿が取られた。そのあいだ猫はぐったりしている。診察台に乗せるとき先生に「この子はどんな性格ですか?」と聞かれて「ちょっとわんぱくかもしれません」と言ったのに、借りてきた猫状態だ。かわいそうになる。尿を抜いている先生に「今すぐどうこうってことは、ないですよね?」と聞いてしまう。自分の口からそんな言葉が出てくることにびっくりしてしまう。大丈夫だと思いますよ、という言葉に、比喩ではなく、胸をなで下ろしてしまった。


細い足に注射器を射されて血を抜かれ、首の後ろにも何本か注射され、なんらかの薬を投与された。抵抗することもなくぐったりした猫を見ていたら、泣けてきてしまった。彼の前両足を抑えていたのだが、その弱々しい顔を見てると申しわけないというか、かわってあげたいとまでは言わないけれども、いたたまれなかった。こんなことで心をかき乱されるとは思っていなかった。

 

もろもろの治療が終わり、会計する。食事療法になったので、キャットフードももらう。受付で「2万4千円になります」と言われる。2万円しか持ってなかったので(これでも多めに持っていったつもりだった)、後日払いにきますと言って、猫の入ったゲージを持って外に出た。
行きとは違って、タクシーを呼んでいなかったので、日暮れの強い海風を受けながら、早足で自宅に戻る。いちど腕が疲れてしまって、ゲージをアスファルトの上に置いたとき、「なんだか猫を捨てるみたいだ」と思ってしまい、慌ててゲージを引き上げた。

 

妻に報告したあとで、毛色が分からなかったと言ったら「キジトラだよ」と教えられた。
まだ動物病院に治療費を払いに行けてなくて、なんだかお金が惜しいような気がしてしまっているのが、我ながら現金だなと思う。明日、2万4千円、払いにいきます。
僕がもっと稼げばいいだけの話なのだから。

 

猫はすっかり元気になりました。 

ブログは、ニートだった僕をとりあえずここまで導いてくれた。

ずっと変わるのが嫌だった。いまの自分から変化したら、過去の自分を否定することになると思っていたからだ。

 

大学を卒業してから、ずっと働いてなかった。大学生のとき、就職活動に失敗した、というか、きちんと挑戦しなかった。

気が向いたらエントリーシート書いて、出して、通ったら筆記受けて、面接で落ちる。対策しないからだ。面接練習が恥ずかしくてできなかった。友人が「面接練習いっしょにやろうぜ」と言ってくれたのを(たぶん、彼も勇気をふりしぼって僕を誘ってくれたのに)、僕は断った。学校の就活サポートにもまったくいかなかったし、僕は就活にぜんぜん熱心じゃなかった。

 

けっきょく、就職したいという気持ちよりも自意識の方が勝っていて、就活仕様の自分に変化するのがイヤだったのだ。変化をイヤがることの方がよっぽどダサくて恥ずかしいことだって薄々気づいてたけれど、薄々じゃダメだった。

 

もちろん内定をもらうことはなく、卒業した。

卒業してからの日々、バイトするでもなく、趣味に逃避するわけでもなく(そもそも趣味がない)、コンビニで買ってきた弁当と菓子をむさぼり、過食にふけった。くだらないオナニーばかりしていた(この世には《くだらないオナニー/まっとうなオナニー》の厳然とした区別がある)。昨日も今日も明日もなかった。延々といまがつづいていた。変化のない日々。

 

それでも、無駄にする日々が積み重なると、そんな時間すらも愛おしくなるもので、僕はこの無為の日々が堆積したうえに、自分の未来がそびえなくてはならないと盲信してしまった。だから、停滞を良しとしてしまった。このあたりの論理の飛躍はなかなか説明しにくいものがある。

過去と断絶して、突然未来が切り拓けてしまうのは、過去の自分に対する裏切りだ、と思いこんでいた。完全な視野狭窄に陥っていた。

 

僕は、毎月故郷の母が送金してくれるお金で、東京に居座った。母は僕が夢に向かってまい進していると信じ、毎月仕送りをくれた。僕は「ちゃんと就活してるよ」と嘘をついていた。母は気づいていただろう。それでも、僕がほんとうに動き出すのを信じて待ってくれた。待ちくたびれたのか、母は死んでしまった。その母を、今年ようやく納骨した。

 

僕は東京にひとりぼっちで、誰も注意しちゃくれないし、客観のない世界で、自家中毒になっていた。延々とつづくなまっちょろい地獄のなかで、汚れたベッドの上で、苦しんでいた。

 

そんな僕を救ってくれたのは、このブログだった。書くことだった。

 

この「ひとつ恋でもしてみようか」を書きはじめたキッカケは、ズイショさんのこの記事だった。

 

 

これを読んでの僕はこんなツイートをした。

 

 

僕はこのとき、ブログを書くキッカケを欲しがっていて、ズイショさんのエントリは背中を押してくれたのだった。ほんとうは当時、ブログを読まれてチヤホヤされたいという功名心が大いにあった(だからいまライターになったわけです)。けど、「あくまでも『サードブロガー』ですから……」という体裁で始めたかったのだ。誰に向けたエクスキューズなのかもよくわからない、こういうのを自意識というんだ。

 

まあとにもかくにも書きはじめることには成功した。僕は孤独だったから、けっこう書いた。どうやったらより多くの人に読まれるだろう、と考えたことはなかった。自分の文章はおもしろいはずだ、と独りよがりに思いこんでいて、おもしろがれないヤツがバカなんだと思っていた。

 

ブログを読んでくれた人たちとツイッターでもつながるようになり、僕自身も他の人のブログを読むようになった。自分が書きはじめるまで、ブログを読む習慣はなかった。

 

あるとき、歌舞伎町でときどきスナックのママに立っていたはせおやさいさんが、「もし人と話したくなったら、遊びに来たらよいのではと思ってますよ」と声をかけてくれた。「このチャンスを逃したら、僕は一生社会に入れなくなる」と思い、意を決して歌舞伎町に向かった。沖縄出身ということだけでも覚えてもらおうと、新宿のどこかのデパートに入ってる沖縄ショップで、サーターアンダギーやちんすこうなどのお土産を買いこんで、緊張しながらスナックのドアを開いたのだった。

 

そこのスナックで出会った人たちが、いまの僕の人間関係のベースになっている。

そして、あのスナックで得た関係は、僕がはじめて学校以外の場所で獲得した人間関係だった。僕はバイトもしたことがない。

 

スナックのドアを開いてからの数ヶ月間で、かつて僕が自分に抱いていた期待や自信みたいなものは打ち砕かれた。僕はほんとうになにも知らなかったし(それはいまでも変わらない)、なにも経験してなかったし、なんのアイディアも生み出せなかった。周りの大人たちはみんなおもしろくて、自分を確立していて、楽しく生きようとしていた。彼らを見てはじめて、自分のくだらなさに気づいた。自意識過剰で、なにも決断できず、経験もせず、ていよく逃げる方法ばかり考えてきた自分の過去を悔やんだ。

 

 

悔やんだけれども、あのころの僕といまの僕はまだそんなに変わりばえしないんじゃないかと思う。僕はまだ、自意識をかなぐり捨てて、おのれの人生を一心不乱に進むことをしていない。

仕事もするようになった、大して稼げてないのに結婚した。

ブログを書きはじめてから、たった2年弱でこんなに人生は変わった。さあこれからどうしよう、妻とふたり生きていくためには、稼がなくてはならない。そこで僕は「自意識」なんてものにこだわっていていいのか。

というか、僕の自意識は中途半端だ。ほんとうに自意識が高かったら、こんな状態がみっともなくて恥ずかしくて、稼ぐためにもっとなりふり構わずやるはずだろう。

 

スナックで出会ったU次郎さんに「らさくん、ニートアイデンティティにしたらダメだよ」と言われたのが、ずっとちゃんとひっかかっている。

 

ブログは僕をとりあえずここまで導いてくれた、この先は僕が切り拓かないといけない。

 

きょうのこと

久しぶりにnote更新した。

 

 

投げ銭にしました。たのしみだなあ〜〜〜。

 

はてなでブログを書くよりも前から、noteには断続的に書いていた。久しぶり流し読みしてみたのだけれど、なんかよかった。書くことの楽しさに酔っている感じがあった。今は、あんまりそういうのがない。なんだか反省いたしました。

  

今日は昨日更新された「ドキュメンタル」を見た。中島みゆき「空と君とのあいだに」が歌われるなか、宮迫にキンタマを弄ばれる井戸田潤のブルースにグッときた。今シーズンのハイライトだと思う。
宮迫の下ネタか暴力しかない笑いの感じ、苦手だ。

あと、Maison book girlが今年5月に行ったワンマンライブの動画を見た。

ワンマンライブ映像丸ごと無料公開とは、ものすごい大盤振る舞いだ。

二宮ユーキは大森靖子のライブ映像をずっと撮ってきた男です。

 

ブクガ、4人ともあまりにも魅力的すぎる。2016-2017の大森靖子×Maison book girlカウントダウンライブで初めて見たときは、井上唯に目が釘付けだったけど、この映像ではやっぱり矢川葵に目がいった。インスト曲でひとりステージに取り残され静止する矢川さんの佇まいに戦慄。あと、矢川さんの衣装は一番肌の露出があるんだけど、なかなか力強い体つきをしていて、少年っぽさがあるのがすばらしい。
和田輪は声が好き。

 

おやすみ日本」も終わったし寝ます。向井秀徳峯田和伸による「守ってあげたい」(松任谷由実)は案外グッとこなかった。コラボせずにふたりともそれぞれで歌ってほしかったな。実は、こないだの銀杏の武道館、2列目から見たのだけれど、ほとんど覚えていない。峯田が出てくる前のノイズで涙して、出てきてからはずっと微笑んで見てた。あんなに無邪気を体現できるおっさんかっこよすぎる。本当に汗とヨダレでだらだらで、俺も頑張らなくっちゃなあと思ったのだった。

おやすみ日本」、森山直太朗の「どこもかしこも駐車場」がめちゃくちゃよかった。勝地涼が海外でエロ動画見すぎて38万円請求された話に、峯田が「俺は50万」と被せ、向井が「そういう話はないけど、サービスしてくれるお店のお姉ちゃんに本気になってしまったことはある」と言い出す流れがおもしろかったです。
勝地さんも峯田もお母さんに頼ってたというのがよかった。僕らはみんな、お母さん大好きなんですよね。

 

今日は妻がブリ大根を作ってくれたのだけれど、その残りが明日も食べられるので楽しみにして寝ます。

 

てーるー

僕がまだ小学校に入るか入らないかのころ、近所の友だちは少し変わっていた。熱いアスファルトの上をいつも裸足で走り回る姉弟と、ちょっとだけ知恵遅れの少年。少年のことは「てーるー」と呼んでいた。
その3人とよく遊んでいた。何をしていたかなんて覚えちゃいないが、近所の空き地に資材置き場があって、休みの日にはそこによく集まっていた。

 

ある日曜日、僕は家族で小旅行に行くからと、彼らとの遊び場に行かなかった。
翌日、資材置き場の周りには規制線が張りめぐらされていた。次の休みから僕らは集合しなくなった。

 

母から聞いたところによると、僕が行かなかった日曜日、彼らは資材置き場で火遊びをしてちょっとした火事を起こしてしまったらしい。そもそも子供が自由に出入りできる状況がまずかったからだろう、その資材置き場はすぐに撤去された。
「まさかあんたはあそこで遊んでたりしないでしょうね」と母は聞いてきたが、「行くわけないよ」と嘘ついた。

 

それからちょっとして、姉弟の両親は離婚して、彼らはどこか遠くへ引っ越した。

てーるーと僕はたまに遊んでいたが、学年が上がると彼は養護学級に通うようになった。彼は同級生にも軽くいじめられるようになって、僕もてーるーとは疎遠になった。学校の廊下ですれ違うたび話しかけてくるてーるーとは、以前のように会話を交わしたが、そのあとで「なんでお前てーるーと喋ってたばー?」と友だちに聞かれると「喋ってんし!」と答えるのが常だった。

 

僕の実家には、彼とふたりで写った写真がある。実家の庭で、フリチンになって水浴びをしている、満面の笑みの写真。

 

高校生になってしばらくしてから、作業着に身を包んだてーるーと近所のバス停ですれ違った。「いま職業訓練してるよ」とあの頃と変わらない笑顔で、てーるーは言った。「今もこの辺に住んでるの?」と聞くと彼は「今日はおじいちゃん家に来ただけだよ」と答えた。それ以来、てーるーとは会ってない。

 

てーるーがどんな子だったのか、今となってはぜんぜん思い出すことができないのだけれど、彼の笑顔だけは忘れていないなと、この文章を書きながら気づいた。それはまあ写真が実家にあるから、なのかもしれないけど。

 

てーるーは今どこで何をしているのだろう。なんで突然てーるーのことを思い出したのかもわからないが、ブログを書こうとパソコンを開いて小一時間悩んでいたら、ふと、てーるーのことを思い出したのだった。

てーるーはきっと、僕のことをふと思い出したりはしないだろう。なんとなく、そう思う。彼には過去がなさそうだから。
でも、僕が10年ぶりに突然目の前に現れても、彼は「らさー! ひさしぶり!」と言ってくれるんだろうな、と思う。そういうヤツだった気がする。

僕はツタヤから可能性を持ち帰っていた

ツタヤに行かなくなった。自宅周辺にないからだ。

 

上京して最初に住んだ町は、町田。神奈川県の淵野辺というところに大学のキャンパスがあったのだが、僕はどうしても「都民」になりたかったので、町田に住むことに決めた。町田がネタにされていることすら知らない田舎者だったのだ。

しかし町田は良いところだった。ルミネもマルイもヴィレバンも、タワレコブックオフもツタヤもあった。僕のような田舎者にとって、ちょうどいい都会だった。

当時、町田には2件のツタヤがあって、僕は町田ジョルナに入ってた店舗によく行った。そこでウディ・アレン北野武を知ったのだった。しかし僕は、当時借りたDVDの半分も見てない。映画DVDは借りるときがいちばんテンションが上がる。自宅に持って帰った途端、それは色あせてしまう。深夜のツタヤで借りたDVDは、1週間、袋のなかで眠る。

 

ツタヤ・町田ジョルナ店は、僕が目黒に越してから、なくなってしまった。

 

目黒に越したのは、キャンパスが淵野辺から渋谷に変わったからだ。当時僕の在籍していた大学は、3年生以降の講義が渋谷のキャンパスで行われていた。

目黒に越してからは近所のツタヤはもちろん、代官山や渋谷のツタヤにも足繁く通った。そのころからゴダールやらトリュフォーやら、ハワード・ホークスやら小津安二郎やら、エドワード・ヤンやらマノエル・ド・オリヴェイラやらを知るようになった。知るようになっただけで、見るようになったわけではない。

見ないまま返却するDVDの本数は、町田にいたころよりも増えた。この世の中にはおもしろいとされている映画が無数にあって、それを見ることに憧れてはいたものの、実際に鑑賞することには熱心じゃなかった。僕はたぶん家で映画を見るのがそんなに好きじゃない。借りるのが楽しかった。借りているときの、可能性に触れている感じが好きだった。まだ見ぬ世界がいますぐ見れる、そういう可能性を家に持ち帰るのが愉快だった。

 

そうして、いまはツタヤのない町に住んでいる。全然不便だと思わない。不便だと思わない自分にちょっぴりガッカリする。100円で感じられた可能性が、いまはもう手に入れられないのだ、というちょっとした寂しさもある。

とはいえ、ネットフリックスやらアマゾンプライムやらを開けば、無数の映像作品が見られる。「映画史に残る不朽の名作」だけでなく、今はまだ価値の不安定な作品たちが、そこではつぎつぎ生まれている。それらはこれから「不朽の名作」になるかもしれない。

 

ツタヤで僕は、過去に可能性を求めていたのだった。しかし、僕はそれに夢中になれなかった。夢中になれないことがコンプレックスだった。

じゃあ僕は、ネットフリックスの中でなら夢中になれるのだろうか。現在を自分の価値観で見極め、可能性をつかむことはできるんだろうか。

今日も「マイリスト」が増えていく。

有限の時間の中で、僕は未だに自分の好き嫌いもよく分からない。自分が何を話したいのかも分からない。「好きな映画は?」と聞かれたら途方に暮れてしまうだろう。