ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

住所変更、銭湯、図書館。

転居から4ヶ月くらい経ち、ようやく運転免許証の住所変更をした。

住所変更するために現住所の確認できる書類が必要だということで、役所に行った。ちょうどマイナンバーカードを失くしていたので、再発行してもらうことにした。最近いろんな企業からマイナンバーカードのコピーを要求されるが、転居の際にどこかに紛れてしまったらしく、見つからない。再発行には500円もかかる。しかももらえるまで1ヶ月かかるとのこと。結局、住民票ももらうことにした。合計800円もかかってしまった、アホらしい。

 

役所に行くとイライラしてしまう。職員は悪くない、煩雑なシステムにいらだつのだ、なのに、職員につっけんどんな態度をとってしまう。申し訳ないなと思う。でも、こんなシステムの運用に従事することで高給もらっているのだから、少しくらい八つ当たりされるのも仕事のうちだろう……と自己正当化しようとする自分に気づき、嫌気がさす。まだ27歳なのに老害の兆しだ。

それにそもそも役所の職員っていまどきは非常勤で安月給の人も多いと聞く。故郷で市役所勤めをしている友人の月給はおそろしく低かった。もちろんボーナスはあるだろうし、福利厚生もいいのだろうけど、それでも真面目に勉強して公務員になったわりにはしんどい現実だと思った。

みんな苦しいので、寛容でありたい。

 

隣駅近くにある警察署まで歩く。おそろしくさみしい町並みだった。色が薄い。低い山に囲まれた土地は死にかけていた。

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寒々しい。

警察署もぜんぜん事件の起きなさそうな閑散としたところにぽつんとあった。けど、入って右手にある警務課の男は色黒でガタイがよく白髪は短く揃えられ、電話をしながら眼光鋭くおれを一瞥した。

住所変更はすぐに済んだ。

 

そういえばこの辺に銭湯があったことを思い出す。マップに従ってたどり着く。

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こんな町に唯一の銭湯だから、期待してなかったけど、案外清潔感のあるいい銭湯だった。番頭の女性も上品な感じだった。

昼間の銭湯はやはり年寄りばかり。湯船はふたつ、ひとつはけっこう熱めで足先がジンジンした。もうひとつは日替わりの湯で今日は「米ぬかオリーブ湯」、ここはぬるくていつまでも浸かっていられそう。つるんとしたじいさんが、肌を撫で確かめながら長湯していた。おれは熱い湯に入ってシャワーで冷水を浴び、しばし休憩のサイクルを3回くらい繰り返した。なんやかや1時間近く過ごしてしまった。

近所にあったら明日も来るけど、徒歩40分なので当分来ないだろう。4ヶ月前は徒歩30秒のところに銭湯があった。髪の毛は部屋に戻って自分のドライヤーで乾かしていた。

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気にいったので帰りにも写真を撮った。この銭湯をいぶかしんでいたのに入ってみたら愛着がわいたという感情の変化が、2枚の写真を見比べると分かる気がする。

 

あったまった体で、来た道を戻る。住む町の図書館にはじめて行く。住所変更した免許証を見せて利用カードを作る。

1階が児童フロアで2階が大人フロアという構成が珍しい。2階ではこの町に別荘をかまえるという石原慎太郎が寄贈した蔵書3000冊の一部が陳列されていた(陳列されているのはすべて彼の著作)。

仕事とプライベートの両方で役立つ本を2冊、最近興味をもった児童文学を2冊、『台風クラブ』のDVDを1枚借りて帰った。

東京と今日とおれ

今日はひとつインタビューがあったので、帰ってきてそれを原稿にしてみる。まずは録音を聞かず、残っている記憶と書き散らしたメモを元にさらっと書いてみる。明日起きたら音源を聞きながら言葉をプラスし、インタビュイーの言葉のニュアンスを調整すればいいかなと思っている。いま目の前にある原稿は取材相手の魅力を10分の1も伝えられていない。

 

今日は久しぶりに都心に行った気がした。妻が「バレンタインデー」と言って突然プレゼントしてくれた靴下を履いているおれは、取材時刻よりだいぶ早めに表参道に着く(早めに着くなんてこと、大学生までのおれにはまったくできなかったので、成長はしている)。国連大学のすぐ近くの地下に埋まっているマクドナルドでポテトを食べながらインタビューの準備をしていたら、スマホ大森靖子さんからのツイート通知が来る(通知オンにしている)。以前からライブで弾き語っていた楽曲「東京と今日」のMV(?)がYouTubeで公開されたとのこと。

 

 

すぐに聞く、涙をこらえる。今月は小沢健二の「アルペジオ (きっと魔法のトンネルの先)」があり、大森靖子の「東京と今日」があった1ヶ月だった、そう結論してしまいたくなる決定的な一曲だった。ライブで聞くよりもコントロールされた歌唱と歌詞字幕によって、はじめて言葉を知る。

《東京都 今日と今日 東京 今日はひとつ夢が叶ったのに 東京都 今日と今日 東京 君に会うとまた夢がひとつ増えてしまう》、《僕はもう大人だから 願いごとは僕で始末をつけるのさ》という歌詞が個人的に刺さったが、《閃きは溢れて 新しい都市となる》に、「Tokyo Black Hole」の《はたらくおっさんで 僕の世界がキラキラ》を思い出し、大森さんにとっての東京は人々の営みなんだな、と改めて知る。

道ゆく人たちみんなに閃きがあること、はたらきがあることにうんざりしている最近の自分を情けなく感じる。みんな生きていることを肯定できない自分が呪わしい。

 

マクドナルドを出て、外苑前に向かって歩く、ピエール・エルメマツコ・デラックスがロケしてるのに遭遇する。久しぶりに来た表参道で「東京と今日」を聞き、マツコ・デラックスを見かけた、これは吉兆だと思った。マツコさんは7センチくらいのヒール履いてた。えらいな、と思った。

 

媒体の人と合流して最終打ち合わせを終え、インタビュー現場に向かう。

今日はまるまるプロモーション日だったにも関わらず、20時ごろでも彼はとても気さくに率直に真剣に丁寧に優しくユーモアと毒も交えてひとつひとつの質問に答えてくれた、助けられた。すごい人はすごい。

 

帰り道で「東京と今日」と「アルペジオ」を聞く。宮益坂上で「アルペジオ」をリピート再生し始めたら、スクランブル交差点までの間に2回聞けた。2アルペジオ

自宅からいちばん近いコンビニまでと同じだ。ちなみに自宅から最寄り駅までは4アルペジオある。

東京と今日、アルペジオ、どれだけ重ねれば、夢は叶い、ほんとうのことを手にできるのだろう。ねむる。

 

 

「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」を聴く

深夜、遠くに踏切の音聞こえる。妻の寝息、猫の毛づくろう音、そしてフリック入力する指が布団カバーを擦る。

 

仕事に慣れていないから、少し働いただけですぐに心が荒んでしまう。でも、書く仕事をさせてもらって初めて気づけたいいことがある、おれは書くことを汚されたくないと思っているらしい。ほんとうのことをいつか書けるようになりたかったから、たぶん、書くことを仕事にしてみたいと思った。しかしそれは間違った選択だったかもしれない。書いて稼ぐことと書いてたどり着くことはぜんぜん違う。自分を守り、家族を守るために、おれにはなにができるのだろうか。やるべきことをやる。暮らす。

 

ひと段落して寝ようと思い、ハミガキをくわえながら眺めていたツイッターで、小沢健二の新曲「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」が配信開始されていることを知り、すぐさまついさっき巻いたイヤフォンをほどき、iPhoneに挿し再生した。オルガンの音、ギターのアルペジオ小沢健二のやさしくつよく言葉をなぞる歌声、それぞれの音のバランスを崩壊させる寸前のベース、打ち込みのリズム、たゆたうストリングス、そして吉沢亮二階堂ふみの訥々とした声を聞いたとき、ハミガキしながら泣いてしまった。ふたりの実在が圧倒的で、なんだかおれの方が嘘みたいに感じられる。吉沢亮二階堂ふみは歌のなかで生きている。

口をゆすぎハミガキを置いてから、また何度か聴いた。やっぱりこのベースはどうかしてる。ハラハラする。とてもやさしく穏やかな歌のはずなのに、体は揺れてしまう。

 

歌詞もすごいのかもしれないけど、まだそこまではよくわからない。

「本当の心は 本当の心へと 届く」という言葉に勇気づけられる人間になりたい。「本当の言葉をつむいでいる」と言えるようになりたい。返事じゃない言葉を喋りたい。

 

1時間くらいつづけて聴いてたら、「アルペジオ」はもうずっと昔から何年もあった歌のように思えてきて、でも確実にいまの楽曲で、時間がゆがむ。

 

踏切の音いつのまにかやんでいた。明日は早起きだ。猫も妻もすやすや眠っている。感傷的になってしまった。

死ぬとき「アルペジオ」が脳内で流れるといいな。

眠る妻にもはやく聴いてほしい。

ここ1ヶ月で見た映画

勝手にふるえてろ』がとてもおもしろかった。そこまで期待してなかったけど、松岡茉優の独白、どこまでいってもモノローグだった世界を、それでも悲痛に終始せずユーモアたっぷりに描いた上で、しっかりラストで落とし前もつけてくれる最高にエモーショナルな映画だった。
あの、会社の休憩室でみんながアラーム設定して雑魚寝するところ最高によかった。時間が来ると各自の傍に置かれたスマートフォンが点灯しだす。孤独に光るスマートフォンたちが、海の底で自らの存在を静かに(静かに)主張するようで、美しかった。
見てからだいぶ経ってしまったので、だいぶ忘れたし、ビール飲みながら見てたのでトイレに立ってしまったところもあった(マンションでイチとニとヨシカがエレベータに乗り込んだところ)。なのでぜひ、もう一度見たい。おれは素直なので、カフェの女の子とも釣り人とも駅員さんともバスで一緒になる清掃のおばさんとも、ヨシカは通じ合っていると信じて疑わなかった。ゆえにマンションでのクライマックス以降は涙を堪えるばかりでした。ヨシカはおれだ。映画を見てはじめてそんな気持ちになった。ニの笑顔がとても好き。黒猫チェルシー聞いたことないんだけど聞こうかな。渡辺大知『火花』でもとてもよかった。
ところで、JRの松岡茉優が温泉に浸かっている「行くぜ、東北。冬のごほうび」のポスターが最寄駅のエスカレーター付近に貼られている。通るたびに毎回どうしても目がいってしまう。なんだか恥ずかしいので、早く外してほしい。好きなポスターだけど。

 

スターウォーズ 最後のジェダイ』もよかった。ハン・ソロ亡き今、ようやく立ち上がったルークも後続に未来を託して死に、映画の外ではキャリーフィッシャーが亡くなったため結果的にレイアも物語から予期せぬ退場を強いられるだろう。旧世代のレジェンドたちが死に絶え、次世代に橋渡しをするという意味で、とてもいい続編だったと思う。旧世代から次世代への継承というテーマで貫かれていることは、ラストシーンを伝説と戯れる子供が飾ることからも分かる。
おれは新三部作が始まったとき9歳で、父に連れられて劇場に見にいった。ポッドレースも、ダースモールのライトセーバーも、彼の死にざまも、座禅するクワイガンのかっこよさにも痺れた小学3年生のおれ。しかし昔からのスターウォーズ・ファンは、新三部作を忌み嫌っていたと後年知り、新三部作が好きな自分が少し恥ずかしくなったものだ。でも、今回の『最後のジェダイ』はそんなおれの気持ちを慰めるに十分だった。
過去に憧れ、それを必死で模倣し、乗り越えようとする。そのチャレンジと『最後のジェダイ』のストーリーは同期していた。感動的だった。

『バーフバリ 王の凱旋』も見た。おもしろかったです。ただ、隣に座っていた男女が、はなっからこの映画を「笑いに来てる」のがすごく癪だった。
自分のリアリティの線の内側に閉じこもって、外国の「とんでも映画」を笑ってやろうじゃないか、って姿勢が鼻につく。ああいう人たちはアベンジャーズとかでは笑わないんだろうな。アベンジャーズもバーフバリもひとしく荒唐無稽だ。ただアベンジャーズの方が「おれたちの知っている」リアルをなぞる部分があるから、シリアスに見てしまえる。でもバーフバリだって、ストーリーとしては何も奇をてらったところがない。バーフバリにリアルを感じられない人が、笑うために見に来ている感じにイラついた。
『バーフバリ』、完全にマーベル映画以降って感じでキメのショットが多くて、完全にグローバルな作品だった。船が突如飛行するところだけたじろいでしまったけど。

 

スリー・ビルボード』がヤバかった。ストーリーも演者もカメラも全部がよかった。
燃えさかるビルボードビルボードのあいだを、消火器を持ってマクドーマンドが走るシーン。あのショットはシネスコで見るからグッとくるので、やっぱり映画館で見てほしい。
ウディハレルソン演じる署長の書いた3枚の手紙には涙腺に涙を流さずにはいられない。しかし燃え盛る警察署で火の手に気づかず手紙に読み耽るサム・ロックウェルには泣いていいのか笑っていいのか分からなくなる。シリアスな話なのに笑えるシーンがちょくちょく入ってくるのがいい。真剣に生きるということは笑えることなんだ。
特に気に入ってるシーンの一つは、マグドーマンドが元夫に首を絞められたと思ったらすぐに息子が包丁を持ち出して父親を諌めるところ。そのあとひっくりがえったテーブルを元に戻す彼らの手際の良さに笑った。あのシーンだけで、この一家が何度もこんな衝突を繰り返し、それでもバラバラになりきれないという奇妙な絆を感じる。こういううまさがとても好ましかった。
結末なんてどうでもよくって、そこに至る彼らの生き様を見届けてほしい。「生きる方を選んでいく」映画でした。
勝手にふるえてろ』と同じく再見したい映画です。

 

嘘を愛する女』も見たけど、つまらなかったのでこれで終える。おれは「リアルな長澤まさみ」なんてこれっぽっちも見たくねえんだよ。もっと艶やかで官能的な映画かと勘違いしていた。

みんな、あまりにも生きている。

みんなあまりにも人間すぎる。道ですれ違う人、電車で隣あった人、コンビニの店員、取材で知り合った人、みんな生きすぎている。

ツイッター水曜日のダウンタウンドキュメント72時間、そういうのに少し疲れてきた。ひとりひとり、もっと無個性でいいんじゃないか。みんなあまりにも生きている。

 

年明け早々、長年の痔をこじらせて病院に何度かお世話になった。病院でのおれは受付番号171番であり、試験管の中の血であり、ひとつの尻であり、肛門から大腸へとつながる空洞だった。それは思いのほか気持ちのいい体験だった。無個性な一個の塊として扱われるのは、自意識とか自己とか実存とか個性とか、そういうのに疲れてしまったおれにとって心地よかった。ベルトコンベア式に診察室を移動し、問診・検査・処置を異なる複数の医者たちに施される。おれはカルテであり、おれとは関係ない。自分から解放される、おれはひとつの症状であり、人体でしかない。ラクだった。

 

ラクだった、と言いながら、こうやって文章を書いてしまう。そのときおれはラクだったんだよ、と言いたくなってしまう。この文章は、ツイッター的であり、水曜日のダウンタウンであり、ドキュメント72時間的である。おれのこの文章も誰かを疲れさせてしまうのかもしれない。

おれはドキュメント72時間的なものに、ブログを書くことで加担してしまっている。おれの文章が誰かをうんざりさせてしまっているのかもしれない。それでも書いてしまう。

こんな風に生きてる人がいるよ、この人の人生は一体どんなんだろうね、おれは生きているぞ!そんなささやきと叫びが渦を巻く。

 

他人の生に疲れているのに、おれもこんなことしか書けない。自分から遠く離れたい。

 

ドキュメント72時間的とさんざん書いてきてなんだが、ドキュメント72時間とおれのブログは肝心なところで決定的に異なる。ドキュメント72時間には、映像が必然的に孕む対象への第三者のまなざしがあるけれども、おれのブログにはおれしかいない。ツイッターのタイムラインも、水曜日のダウンタウンも、観察者の編集によって整えられているけど、おれの文章にはおれしかいない。

おれはおれに飽き飽きしているだけなのかもしれない。おれが「死にたい」とたまにつぶやいてしまうのは、おれから離れたいからだ。

 

でも、「おれ」を手放してしまうような夫や父にはなりたくないとも思う。

 

寝顔

寝顔のない人間はいない。そのことを頭では分かっているのだが、おれは人の寝顔を思い浮かべることができない。安倍首相がどんな寝顔をつくるのか、何を着て寝ているのか、昭恵と同じベッドで寝ているのかどうか、見当もつかないのはまあ無理はないとしても、例えば仕事で関わりのある人たち、インターネットで知り合った友人たちの寝顔もまったく想像できない。

大学の友人までなら寝顔もなんとなく覚えている。みな険しい顔をしていた。安らかに眠っているヤツなんてひとりもいなかった。それは遊び疲れた後の顔だから。眠っていても、ふだん一緒に寝ない連中といるがゆえ、多少の緊張感があっただろう。あの寝顔たちは、おれの知りたい寝顔とは違う。彼らはひとりの夜、どんな顔して眠っていたのだろうか。

 

家飲みでへべれけになりフローリングで電池の切れたおれの寝顔、友人に撮られたことがある。おでこに右腕を乗せ、眉間にはシワが寄っている。そして唇をこれでもかと尖らせていた。顔の中心に向けて力を集中させないと、福笑いのようにパーツがばらけてしまうのかもしれなかった。酒の飲み方がまったく分からないころのことだ。

あのときの寝顔、すごくブサイクだった。おれの寝顔は汚かった。

みんなも寝顔は汚いんだろうか。寝起きの口は臭いのだろうか。みんなもちゃんと汚くあってほしい。

 

むかし、イビキを録音してみたことがある。7時間半、iPhoneにプリインストールされたアプリで録った。飛ばし飛ばし再生してみると、すごく大きないびきが30分続き、1時間止む。また30分いびきをかき、1時間休むいうサイクルだった。1時間の休止中、部屋のなかはとても静かだった。たまにベッドのきしんだり肌が掻かれたりする音が聞こえる。静かな部屋で眠っているひとりの男の動く音が孤独だった。誰にも聞かれることのないいびきは、自分の生の無意味さを象徴していた。

 

みんなも眠っているのだろうか。

 

「犯罪者であっても スヤスヤ眠る 素晴らしき世界だね」と中村一義が歌っていたが、本当に犯罪者もスヤスヤ眠るんだろうか。犯罪者は『レオン』のように片目を開けたまま座って寝るんじゃないのか。

 

妻に、「おれ寝言いう?」とか「寝顔汚いでしょ」などと言ってしまう。寝言は言わないね、いびきも最近は聞こえない慣れただけかな、寝顔かわいいよ、と言ってくれる。「寝顔汚いでしょ」と聞くときおれは、真実なんて欲してない。「かわいいよ」と言われたがっている。そうだねえ、ブサイクだねえ、と言われたら多分傷ついちゃう。

でもまあ「かわいいよ」の言葉がもしも嘘であったとしても、おれの眠りを見る人が横にいるのは、素晴らしき世界だね。

おれも妻の寝顔を知っている。かわいいよ。

 

 

節分は来年もくる

恵方巻き食べた。妻は恵方巻きに熱心ではない。おれはとても好きなので、スーパーで買った。

昼過ぎ、おやつ代わりに恵方巻きを食べた。おれの足の長さくらいあった太巻きを半分に切って、南南東を向いて一口食べた。自宅のリビングで南南東というと、ソファーの背もたれに相対することになる。妻は「本当にあっち向いて黙って食べるの?」と怪訝な顔をしていたので、一口食べたらふつうに座って食べよう、とおれは言った。
妻は太巻きを食べにくそうにしていた。

 

太巻きは「日本のピザ」って感じがする。好きな具を詰め込んで米に巻く。米はピザ生地で、海苔がチーズといったところか。ピザとコーラは合うけれど、太巻きを流し込むのに向いてる飲み物はなんだろう。やっぱりお茶か。来年の節分に考えようか。

 

夕飯は古くなった米でチャーハンを作って食べた。米ばかり食っている。
チャーハンの量が少なかったので、節分の豆を食後につまんだ。川崎大師で祈願してもらったという豆が近所のスーパーで売られていて、それを買っておいた。おれは本当に節分が好きだ。
今年は豆まきはせず、食べるだけで済ませた。来年は豆まきしようか。でも来年には子供がいる予定なので、床を這う子供が豆を食べるといけないからやっぱり豆まきはしないだろう。

 

おれが節分を好きなのは、家族の良き思い出と結びついているからだ。
家族4人で、家中の部屋を豆をまいて回る。ふだんは両親が入ってこない子供部屋に両親と共にいる、ふだんは入らない父の寝室に家族みんなで足を踏み入れる。暮らしている家のなか、家族全員で固まって歩くことで、見慣れた景色が非日常になるのが好きだった。
おれの家族はみな出不精で家の中にいることが多かったが、部屋数が多かったから同じ空間に全員がそろうことは稀だった。夕食中、母はキッチンで料理後の一服でタバコをふかし、ビールを飲んでいた。食卓に家族4人そろうことはほとんどなかった。父は夕食が終わるとすぐに自分の部屋に引っ込んだ。父が去ると母が食卓に着く。妹とおれは母と一緒にテレビを見たり話したり、だらだらと時間を楽しく過ごした。

節分の日は各部屋を回ったあとで、鬼の面をかぶった父に豆を投げつける。父は玄関を開け、外階段を降り、庭の門から路地に出る。角を曲がって鬼の姿が見えなくなるまで、おれたちは豆をまきつづけた。鬼は外、鬼は外、鬼は外……。鬼と言われているのに父は楽しそうだった。
我が家が節分をしなくなってからしばらくすると父は「おれをないがしろにするのか!」と母と妹とおれに捨て台詞を吐き、自室に引っ込んだことがある。長年鬼にされて寂しかったのだろう。鬼を外に追いやった気になったおれたち3人は、父を抜きにして楽しいことを楽しんでいた。
歳の数だけ豆を食べるのも好きだった。当時豆は全然好きじゃなかったけど、たくさんの豆を食べなくてはならない父と母がなぜかうらやましかった。母は生きていれば今年56粒食べる。父は59粒食べただろうか。父は豆が好きなのでそれくらいかんたんに平らげるだろう。先日父が送ってくれた食料品の山、やたらとピーナッツのお菓子で構成されていた。

 

今年は妻とふたりで数えきれないくらい豆を食べた。おれは節分が好きなので、この行事をこれからも大切にしていきたい。妻は太巻きも豆まきもあんまり重視していないようだが、今年は恵方巻きにも豆食いにも付き合ってくれたのでうれしかった。
おれは節分だけ鬼になる夫、父親でありたい。今年の5月、子供が生まれる予定。