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ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

子供の勘違い

雑記

「どうしておなかがへるのかな/けんかをするとへるのかな/なかよししててもへるもんな/かあちゃんかあちゃん/おなかとせなかがくっつくぞ」(「おなかのへるうた」)

 

小さいころこの歌を聞いて歌ってた僕は「お腹と背中がくっつく」のフレーズの意味を誤って捉えていた。腹の皮膚と背中の皮膚が餅のように伸びて伸びてくっつき、ドーナッツのような輪を人の傍らに作り出すんだと思っていた。

本来は、腹が減りすぎて体が平べったくなることを「おなかとせなかがくっつく」と表現しているわけだが、子供のころの僕は「おなか」といえば、じぶんのこの目に映るおへその空いた皮膚であり、「せなか」といえば、背もたれに触れる皮膚のことだと思っていた。だから腹が減りすぎると人間のおなかとせなかの皮膚は(なぜか)だらだらと伸びだし、くっつくのだと思っていた。

また、腹が減りすぎてお腹と背中がくっつくようなひもじい思いをしたこともないから、歌詞が実感できなかったことも勘違いの理由だろう。僕は飯には十分恵まれていて、だから、体がぺったんこになるほどの空腹を味わったことはない。歌詞が実感できるわけはなかった。

人生でもっとも腹が減ったのは中学3年生の冬、サッカー部の練習試合でのこと。ゴールキーパーだった僕は午前9時から午後6時まで、全7試合ゴール前に立ち続けた。その日僕以外のキーパーは負傷やら体調不良やらで試合に出られず、代わりに僕が1軍、2軍の試合すべてに出た。細かい休憩時間はあったが、飯を買いに行くヒマもなかったため(誰かに買いに行ってもらうのは気が引けた)、ほんとうに何も食べずに試合に出続けた。あの日はほんとうに腹が減ったのだが、帰宅後は疲れ切っていてけっきょく何も食べずに寝てしまった。

「少し休憩させてください」とひとこと言えればよかったんだろうが、そんなことを言ったら監督は怒るだろうと、僕は勝手に考えていた。だから、「まだいけるか?」と聞かれて「いけます」と言い続けた。

 

 

子供は勘違いするもんだ。

僕は小さいころ、自動車はウインカーを出さないとハンドルが回らないと思っていた。ウインカーを出すとハンドルが回るように設計されているもんだと思い込んでいた。

ある日急ブレーキを踏んだ母が「バカヤロウ!ウインカー出せよ!」と怒鳴っているのを聞いて「ウインカー出さなくても車って曲がれるの!?」とはじめて気づいたのだった。怒る母親にその気づきを報告したら、母は笑顔になった。

 

 

子供は勘違いするもんだ。

大人になったら、自然と働き、納税し、結婚したくなったら結婚し、素敵に暮らしているんだろう。子供のころの僕はそう思っていた。しかし今の僕はあの頃から十数年経ってもまだ子供みたいに過ごしている。大人になったら自然とあらゆることができるようになるではなく、働き、納税し、社会に貢献していくことを通して人は大人になっていくのだった。年を取ったら自然と大人になりあらゆることができるようになると、子供のころの僕は勘違いしていた。

おなかとせなかがくっつくのを実感するのは、ちょっとこわいなあ。こわいけど、大人になるのは大変そうなので億劫だ。

 

ちなみに僕は運転免許証を持ってはいるが、運転がとても下手で、ウインカーは出せてもタイミングがはかれず、車線変更や右折がなかなかできない。まあペーパードライバーだからそうなるのは当たり前だ。何事も練習しなくてはならないのだが、子供時代を過ぎた人間にとっては、練習はイコール本番なことが多いので大変だ。

報告

雑記

「実家出ると親と妙に仲良くなったりしますよね」って言葉を聞いたけど、俺は真逆だった。

 

実家に住んでいるころは、母とよく話していた。喧嘩も多かったが、翌朝にはどちらからともなく歩み寄ることができた。俺も毎日いろいろなことを話していた。友達の愚痴、気になる娘のこと、社会のこと、将来のこと……とにかくなんでも話した。

 

上京して生活がすさんでいくにつれて、母との電話が億劫になっていった。「今日は何食べたの?」って夜聞かれたときに「起きたばかりで何も食べてない」とはとても言えず、ウソをついた。

起きたばかりだから今日一日何してたの?という質問にも答えられない。そんな感じでどんどん疎遠になっていった。

 

大学に入ってからは帰省するたび、母と喧嘩になった。母はよく「わたしの分からない言葉で話さないで」と言うようになった。俺は心のなかで「少しは勉強しろよ」と母をののしった。いや、実際にそう言ったこともあっただろう。

 

子育てがひと段落してヒマになったからか、母は政治にかぶれるようになった。その思想はちょっぴり嫌韓・嫌中で、情報源はヤフーニュースのコメント欄で、だから俺は彼女のことを見下すようになった。俺は大学で一応政治学を専攻していたので、母のトンデモな意見に律儀にツッコんでしまっていた。そんな俺に母は「分からない言葉ばっかり使って」と憤るのだった。

 

母の日常には中国や韓国からの観光客が多くなっていて、その人々のなかにはマナーの悪い人たちも少なからずいたのだろう。そういう人たちへの違和感を母はよく語っていた。しかし遠く離れて住む俺には、母の実感がわからなかった。近所のスーパーに行くたび、併設する薬局で中国人が爆買いするのが目に入ったりしたら、いい気持ちはしないのかもしれない。そういう母の実感をないがしろにして俺は、東京の論理で母の感情を否定していた気がする。

中国という国、韓国という国がどうかはともかく、個人個人は良い人もいるんだから、そんな一緒くたにして非難したらダメだよ、なんてお利口なことばかり俺は言っていた。

 

俺と母は、いっしょに住んでいるころの方がわかり合っていた。同じ景色を見ていたり、毎日お互いに感じたこと考えたことを話し合っている方がよかった。

俺たちのような親子もいれば、離れてはじめてお互いに冷静になって理解し合える親子もいるんだろう。それぞれいろいろあるんだろう。

 

それぞれいろいろある、というのは全然いいのだけれど(というかそれはただの事実なので、良いも悪いもない)、俺個人の問題として、俺の母はもうこの世にいなくて、彼女とわかりあう機会をもう二度と持てない、というのがある。

これから俺がどんなに良い人生を歩んでいっても、母にその報告は届かないんだと思うと、少しやるせない。

「ちょいと寂しいね」 小津安二郎『秋日和』(1960年)感想

映画感想

三輪の七回忌。寺に集まった三輪の妻秋子(原節子)とその娘で未婚のアヤ子(司葉子)は、三輪の友人たち間宮(佐分利信)、田口(中村伸郎)、平山(北竜二)の相手をする。3人は24歳のアヤ子に縁談を持ちかけるが、彼女は笑ってごまかす。母・秋子をひとり残して結婚するのにためらいを感じているらしい。それに気づいた男3人は、先に母親を再婚させて片付けてから、その後でアヤ子を嫁がせればいいと考える。

 

この男3人きりの会話がおもしろい。「三輪は秋子さんみたいな美人をめとったから早死にするんだな、俺は早死にの心配ないよ」みたいな軽口を叩いたり、料理屋の女将を見て「あれの亭主は長生きだろうな」みたいな陰口言って笑うところ。《美人と結婚=早死に》を《不器量と結婚=長生き》に反転させて笑い飛ばす感じが軽妙でたのしい。こういう男の会話はまあまあ下品だし女を不愉快にさせるものだろうが、そういう一面的な捉え方をせずに言葉遊びとして見るべき場面だと思う。

 

アヤ子の会社の同僚で友人の佐々木百合子(岡田茉莉子)がいい役だった。先に結婚して友人が乗る電車を会社の屋上から眺めつつ「わたしたちの友情ってもんが、結婚までの繋ぎだったらとっても寂しいじゃない、つまんないよ。ふん、バカにしてろ」とこぶしをポンと突き出すところのスネ方がかわいい。廊下を歩いてった平山の後ろ姿にシャドーを重ねながらジャブを打つ息子のシーンと重なる。

勝手に秋子の再婚を画策して三輪親子を仲違いさせた男3人の元に押しかけて「どうして静かな家に石放り込むようなことなさるんですか」とまくし立てるところは毅然としていてかっこいいし(ごもっともだし)、その後男3人を騙してへんぴなところにある自分の家の寿司屋に連れてっちゃうところもすごくチャーミング。

なんだかんだでアヤ子が嫁いだ夜、百合子は銀座から帰りに秋子の様子を伺いに来る。そういうところもよい。百合子は「あたし、これからちょいちょい来ていい?」と笑顔でたずねる。このシーンの彼女と秋子は残された者同士の寂しさでつながっている。しかしその後ラストから2番目のショットでのうつむきほほ笑む原節子からは、いずれ百合子も嫁ぎ、わたしは本当にひとりぼっちになるんだろうな、というような諦観が感じられる。

 

ラストショット、いままで何度も映ったアパートの外廊下、 三輪家の前の照明だけ消えている。もうこの家は消灯してしまった。

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この映画には上の画像のような無人のショットが数多く差し込まれている。それらのショットは場面説明だけのものでは決してなく、それ自体が物語のテーマにとって重要だろう。誰もおらず、何の物音もしない部屋や廊下は、すべての無常を感じさせる。この部屋や廊下で生きていた人たちはすでに死んでしまったのではないか、と思うようなショットたち。

 

百合子が「わたしたちの友情ってもんが、結婚までの繋ぎだったらとっても寂しいじゃない」と言いつつ願っているのは、青春が永遠に続くことである。友人の結婚を祝ってみんなで山登りをした、ああいう時間が、青春が、ずっと続いてほしい。しかし結婚という区切りでもって女が家庭に入ってしまい、同時に友情も途切れてしまう現実に対して感じる寂しさ、悲しみ。

とはいえ、永遠の青春を願う百合子も遅かれ早かれ結婚してしまうだろう。

その一方で再婚はしないと固く決意している秋子の部屋の前の灯りは消えてしまう。

 

 

結婚にともなう女たちの寂しさ、悲しさが前面に出ている一方で、間宮、田口、平山の3人は実にあっけらかんとしている。アヤ子の結婚式の後で間宮が「しかしおもしろかったじゃないか、これでもう終しまいかって思うと、ちょいと寂しいね。他に何かないかね」というが、人ん家をかき回して他人の娘の結婚をこしらえておいて「おもしろかった」と感想して終わらせるのが実に無責任で良い。このセリフのちょっと前に百合子を評して「ああいうのもたまにはいいよ、ウェットすぎても困るからな」「でもドライすぎても困る」というやりとりがある。ウェットというのは秋子とアヤ子のことだろう。

ウェットにはならずドライでもなく、おもしろがってお節介して、「ちょいと寂しいね」なんて具合で終いにして、飄々と生きていられたら実に気持ちいいんだろうな、と思う。

 

 いまの時代にあってはなかなか想像できない生き方だけど。

腹が治る

日記

先週の火曜日から腹痛と下痢に悩まされ、木曜日医者に診てもらったら「週明けには治ると思いますよ」と言われて本当に今日ほぼ治った。問診と触診だけで見通す医者すごい。

 

しかし下痢のせいで痔が終わった(あーどうしても言いたくなるなあ〜〜〜〜)。ずっと見ないふりをしてきたお尻の疾患、今回の集中砲火で完全に終わった(めっちゃ言いたい…………)。もう俺の尻は医者のメスなしではどうにもならないのだと、頭ではなく腑の方で納得した。俺の尻はずっと終わっていたのだ(言いたいよお!!!!!)。痔・エンドである(スッキリ)。

 

しかしやっぱり医者はすごいんだろうなあ〜。たくさん勉強してたくさんの患者を診ているから、やっぱり彼らの言うことはおおむね正しいんだろう。これまでの俺は医者のことをあんまり信じていなかったことが、今回病院に行ってわかった。

 

俺が医者を信用できてなかったのは、今までかかってきた病院の医者がことごとくダメだったからかもしれない。蓄膿症が辛いと言っても花粉症が辛いと言っても毎回「点鼻薬すれば治るので一にも二にも点鼻薬、しっかりやってください」しか言わない先生。こっちが大森靖子好きだからっていつまでも点鼻薬に頼ると思ってたら大間違いだぞ(大森靖子HPによれば、大森さんは点鼻薬が好き)、薬飲んだら一発で良くなるじゃねえか。

痔を診てくれた町医者は、俺が診察室から出ると入れ替わって入ってった別の患者に「あの人は若いのに酷い痔なんだよ」と言っていた。待合室まで丸聞こえである。守秘義務皆無だ。この病院はいつの間にか廃業していた。

去年はじめて行った歯科にも驚いた。帰り道、ふと舌で治療跡を撫でると、金属片に触った。何かと思って指に乗せると螺旋状の小さく鋭利な銀色の塊だった。電話して聞いてみるとさっきの医者は「あ、心配いらないですよ、治療中に一回ドリルが割れたんですけど、その先っぽを吸引し損ねただけです」と笑いやがった。いや、ドリル割れたのはしょうがないし、吸引し損ねることもあるだろう、でもさ、まず謝ってくれよ。俺がどんな思いで電話したと思ってるんだ。しかしこの歯科医院はとても評判が良いので、俺がたまたま運悪く変な医者に当たっただけなんだと思う。すげえチャラい陸サーファーおじさんだった。

 

医者運の悪い俺も、今回は珍しく親身になって聞いてくれるうえに大変正確に患者を見通せる医者に出会えた。もしかしたら今年は医者運がいいのかもしれない。だから、痔を治すなら今年がチャンスだ。そうやって思い込みを増やして増やして俺は手術台に近づいていく。

 

ほんとは思い込みではなく、良い医者に出会うために情報を集めるべきなんだろうけど、良い医者がどこにいるのかって情報は、どこに行けば得られるのか皆目見当つかない。

 

腹が痛い

日記

3日くらい腹痛と下痢が続いてる。

昨日ようやく「薬を飲む」という解決手段を思いついた。それまで腹痛は自然に治るものだと思っていた。薬局へ行き、買ったその場で錠剤を噛み砕くが効果なし。恋人に促されに促され、涙をこらえて病院へ行くと、医者に「週明けには治ってるでしょう」と言われる。処方薬を飲みはじめたが、「週明けには治る見込み」なので、痛みと腹下しはいまも続いている。

 

涙をこらえて病院へ行った、と書いたが、本当は少し泣いた。電話越しに「あした病院行かなかったら週末は会わない」と言われ、そんな取引ヒドいや……と思い、ほんのちょっぴり泣いた。甘えすぎである。まあ泣いたのは深夜だったからってのもある。夜は感情が高ぶりやすい。

俺はなぜか病院が嫌いなのだ。あの病院特有の陰気臭さゆえ、待ち時間が長いから、むしろ風邪とかうつされそうなリスクを懸念しているせい、厄介な病気が見つかってしまうのが恐いため……パッと思いつく理由はそんなところ。

自分の普段の不摂生を診断という結果で突きつけられるであろうことも辛い。俺はいま手術すべき疾患をふたつ持っているが、その手術自体の恐怖もさることながら、西洋医学によって俺の不摂生ぶりが暴かれるのが嫌だ。

手術に踏み切る前に摂生を身につけたいとずっと思ってきた。健康になるための手術を健康になってから受けたいって、自分で書いててもアホな考えだと思うが、そんな考えにここ何年ずっと捕らわれている。そしてあらゆることを常に先送りしてしまう俺は依然として不摂生で、だから病気も相変わらずだ。

 

午後の診察開始時刻を過ぎてもなかなか家から出られなかった。ようやく家を出た頃には夕方になっていた。小雨のなか傘さして病院へ向かっていると向こうから低学年くらいの小学生がふたりやってくる。冴えない感じの男の子と女の子だけど、ふたり手をつないで、男の子が一生懸命喋っているのを女の子が一生懸命聞いていた。ふたりとも傘はさしてなかった。俺は平日の夕方、病院に行くところだった。

 

ようやく病院に着く。はじめて来る病院だ。

そういえば俺は、生まれてこのかた内科というものに来たことがない。小児科、耳鼻科、歯科、眼科、皮膚科、肛門科にはかかったことがあるが内科ははじめてだ。

病院では靴を脱いでスリッパに履き替えなくてはならなかった。俺は素足にスニーカーをつっかけて来ていたので、素足で病院のスリッパに足を突っ込むのは少し気が引けたが、止むを得ず履いた。病院のフロアを裸足でぺたぺた歩くのはさすがに恥ずかしい。

 

受付に保険証(被扶養者)を渡し、椅子に腰掛け脇に体温計を挟んだまま問診票を書く。すぐに鳴る。37.0℃。微熱があるらしい。受付に体温計を返して、再び問診票に記入。渡す。すぐに名前を呼ばれる。そして冒頭言ったように「週明けには治るでしょう」という毒にも薬にもならない言葉をかけられる。それに対して「今すぐ治してほしいんだよ!」と伝えられるはずもなくすごすごと退出。

 

会計を待つあいだ椅子に腰かけぼうっとしてたら思い出した、いま17円しか持ってない、金おろさなくちゃ。

受付に「お金おろしてきます」とことわって病院をいったん出る。2分くらい歩いてゆうちょATMの前に立つ。ジャンパーのポケットを探る。財布がない。ズボンのポケットにも、カバンの中にもない。また財布を落とした。俺は1週間前にも財布を落としている(http://massarassa.hatenablog.com/entry/2017/02/20/110536)。ATMの前で大きなため息をつく。受付に保険証(被扶養者)を渡したからそのときはまだ財布はあった。ということは、病院内か病院からATMまでの道のりに財布は落ちているはず。

 

道中にはなかった。じゃあ病院にあるだろう。受付の人に「財布の落し物なかったですか」と尋ねる。「特に届いてないですが、診察室も確認してみますね」と言ってくれる。5分後、診察室から俺とそう年の変わらない私服の男が出てくる。それから少し経って、先の受付の人が財布を持ってきてくれた。

何度も財布を落としてきた俺だが、財布を無くしたことはいちどもない。

 

ありがとうございます、と言って再び病院を出て、ATMに向かう。

 

三度病院に入る。さっきはありがとうございました、すみません、というと「1070円です」と言われる。ぴったり支払う。「お大事に」と言われる。

 

そういえば病院に着いてから病院から帰るまでの1時間、いちども腹痛くならなかったな、と思ったら痛みが蘇る。

 

帰り道、病院行ってきたよ、とLINEする。「えらい」と褒められる。「約束守ってくれて嬉しいよ、ちょっと泣きそう」とまで言われる。こんなことくらいで褒められたら逆に惨めだわ、と返信しながらも内心ちょっと嬉しい。嫌だ嫌だと避けがちな病院にようやく行けたことで、少し自信がついた気がする。

 

俺には根拠のない自信はあるのだが、根拠のある自信がない。根拠のある自信をつけるために、ずっと悩まされている副鼻腔炎と痔の根治手術に踏み切るというのは、案外良い手かもしれない。手術に対する膨らみすぎた恐怖と、術後に訪れるらしい未知の痛みを我慢しただけで自信がつくうえに、いまより日常が快適になるのは、悪い話じゃない。今日のところはそう思っている。健康になりたい。

 

 

 

 

夢日記(ゴルフコース)

日記

体調が悪くて今日はずっと寝てた。夢を見た。

 

 

実家からほど近いゴルフコースに、家族4人で来ている。誰もゴルフをする気はなく、各コースのティーからカップまで、4人全員それぞれの速度でひたすら歩きつづけている。それぞれの速度で歩いているが、先に行く者もいなければ、集団から遅れる者もいない。付かず離れずの距離を互いに保ち、何か話しながら、比較的ほがらかに、春のゴルフコースを散歩している。

 

6番ホールで水分補給のために我々は足を止めた。このホールには華奢な女子高生の膝小僧くらいの大きさの穴があって、そこから湧き出す水はうまいと評判だ。その穴は隣の7番ホールとの段差に穿たれている。7番ホールには大きな池があって、そこの水が地下を通って、この穴から出てくる。池から直接すくった水は血のような味がするのだが、この穴から出るときには、水は柔らかく、そして甘くなる。穴に紙コップを当て、水を注ぐ。みんなそうやってここの水を飲む。

 

座って水を飲んでいると、小高くなった7番ホールの方の木々の隙間から、青ざめた女の顔が見えた。ゴルフ場に入ってから私たち以外の人間をみとめるのは初めてだった。立ち上がってその方を見てみると、女の足元には小さな男の子が痙攣しながら倒れている。

 

父は彼女たちの元に駆け寄った。「大丈夫ですか」と声をかけると同時に、向こうからゴーカートに乗った救急隊がやってくる。父は私たち家族の元に戻ってきて、いっしょに事のなりゆきを見守った。

 

その男の子の母親が言うには、男の子は石ころを喉に詰まらせたらしい。馬鹿な子だ。ふたりの救急隊は真剣な表情をして、男の子を芝生のうえで転がしていた。そんな方法で石ころは出てくるのだろうか。疑問に思うが、私たちは一切口を挟まない。

 

1分くらい男の子は転がされ続けたが、彼はまだ石ころを吐き出さない。やがて痙攣も止まり、まったく動かなくなってしまった。

 

すると私の斜め前で腰に手を当て事態を見守ったいた父が、男の子の元へ歩き出した。救急隊を押しのけ、「しょうがねえな」と言いながら父は男の子の足を片手で掴み、彼を振り回し始めた。どこかの外国人プロレスラーが入場時に鎖を振り回すパフォーマンスをしていたがちょうどあんな感じだ。

 

男の子は何度も芝生に叩きつけられた。父は制止しようとする救急隊を、男の子で殴り倒した。男の子の母親は気を失い、私と母とキョーダイは、立ち尽くすしかなかった。私は自分の体格を思い出し、自分が父に振り回されることはない、という事実を思い出して安堵した。やがて警察が来て、父は逮捕された。賠償金の支払いで私たち一家は路頭に迷うかもしれないと思いつつ、パトカーを見送った。

 

夕暮れのゴルフ場に横たわる男の子はもちろん事切れていて、彼の母親は、柔らかく甘い水で、息子の汚れた頰を濡らしつづけていた。男の子の喉につっかえてた石はいま、母の左手のなかにある。

 

 

男がドヤ顔で語る恋の思い出 『ラ・ラ・ランド』感想文

映画感想

冒頭ハイウェイでの長回し(風?)ミュージカルシーン、曲のラストでカメラの高度が上がり、撮影のために封鎖した車線以外では車が走り続けてるのを見せるんだけど、この映像に「この撮影のために道路封鎖したのすごくない?」という自慢を見てしまい(いや、もちろんすごいんだけどさ!)、物語に入り込む気分を初っ端から削がれる。色鮮やかなふつうの人たちがこの映画のコンセプトを歌って踊って叩いて弾いて説明するのは楽しいけど、このカメラの上昇によってデイミアン・チャゼルのドヤ顔を感じ取ってしまって、どうにも俺はダメだった。あと、ハイウェイの車を横移動で捉えるところでドゥニ・ヴィルヌーヴ『ボーダーライン』(2015年)を思い出してしまい、銃撃戦が始まるのでは?とわなわな怯えたこともあって、のめりこめなかった。

 

そういえば、セバスチャン(ライアン・ゴズリング)はビビりだった。サプライズするためにこっそり帰ってきたのは自分なのに、帰ってきたミア(エマ・ストーン)にビビるところなんかは、めちゃくちゃチャーミング。俺もそういうところあるので気持ちわかります。ドッキリを仕掛ける奴は自分こそがビビりなのだ。

 

そんな調子でいつ『セッション』(2014年)の交通事故的なアクシデントが起きるかと身構えていたら、いつの間にか画面からは彩りが失われていて、セブとミアの関係は1年も経たずにすれ違ってしまう。ふたりは別々のルートを進むことを決めるのだけれど、そんなのはハナから決まっていたことだ。ビュイックリヴィエラコンバーチブルというクラシックカー(映画「ラ・ラ・ランド」のファッションに注目する4つの理由 | Fashionsnap.com)に乗るロマンチックなジャズピアニストであるセバスチャンと、プリウスに乗るといういかにもハリウッドセレブ的な振る舞いだけは最初から身につけていた女優志望ミアの恋路が続くわけはなかった。俺は悲恋が大好物なので、この辺りから映画にのめり込めるようになった。だから、重ならなかったふたりの未来を映画という魔法でふたりに夢見させてくれるというクライマックスはキュートでロマンチックで泣ける。既に指摘している人もいるが、小沢健二のニューシングル「流動体について」が残酷かつ美しく描いてみせた「ほんとうのこと」と、『ラ・ラ・ランド』の結末は、たしかに似ている。
並行世界、ありえたかもしれない別の未来、別の選択をしていたら自分(たち)が歩んでいたであろう現在に想いを馳せつつ、いまを肯定する覚悟みたいなものには、感動してしまう。せざるをえない。

 

しかし、それでもやっぱり『ラ・ラ・ランド』を全肯定する気にはなれない。不満な点はいくつかあるけれど(いわゆる「ジャズ警察」じゃなくてもこの映画のジャズの描き方には疑問を抱くでしょ?)、その最たるものはミアというキャラクターのわからなさだ。

 

ディズニーアニメのヒロインがたくましく描かれる時代にあって、「私を見つけてくれる誰かがいるはず」みたいな夢を見ているのはちょっとイタいし(そういう痛々しさを引き受けられるかどうかが案外この映画を気にいるかどうかの分かれ目かもしれない、なんでミアを痛いと思うかって、それは同族嫌悪からです)、6年間オーディション受け続けてるけど努力が実らなくて惨めすぎて辛いよ、とか言われても、彼女が本気出したのは(劇中では)自分で押さえたハコで自作自演の劇をやってみたあの1回だけだから、感情移入のしどころがわからない。なんども衣装を変えて行われる数々の不遇なオーディションシーンも、セブとミアが服を着替えまくってたのしくデートに繰り出すシーンと重なってしまうから、悲惨さが伝わりにくい。せいぜいがコミカルな印象に止まってしまう。だから、ミアがどんくらい辛いのかってのは、観客それぞれが自分の人生と重ね合わせてしか理解できないのではないか、と思う。

 

あと、お前との生活のためにちょっと気にくわない奴ともバンド組んでツアー回って金稼いでる恋人に対して理解なさすぎでは?とも感じる。ミアはライブ会場でバンドにおける彼氏の役割を目の当たりにしてショック受けるわけだけど、いや、ふつう自分の彼氏がやってるバンドの音源いちどくらい聞いとくだろ、なんでライブ会場ではじめて聞いて「わたしの彼氏は信念を曲げてダサい音楽やってるのか……」って落ち込むのは酷いよ……と思ったりする(「カルテット」6話で真紀(松たか子)が幹生(宮藤官九郎)のくれた詩集を読まないまま鍋敷きにしちゃうのとはワケが違う)*1

 

とはいえ、別れたふたりが再会したのは「セブズ」なわけで、セバスチャンくんはミアちゃんとの思い出をめちゃくちゃ大事にしている。セブズという名前は、ミアがセバスチャンにプレゼントした名前だ。
大事な思い出だからこそ、ふたりは再び体を重ねたりなんかしない。ふたりが一生愛し合っていることは、抱き合わなくたってふたりにはわかっているのだから。ふたりは愛し合っているのだから。ふたり愛し合ってる、それってなんでだ?

 

渋滞に巻き込まれたとき、それぞれの車中からセブとミアは互いを見つけ合う。レストランの外を歩いていたミアが、ピアノの音色に惹かれて扉を開くと、ピアノの前にはあのときの失礼な男セブが座っている。再会のとき、ふたりは見つめ合う、おそらく、このときふたりは惹かれあっていた、それはクライマックスの「ありえた未来(現在)」において、ふたりがこのレストランでキスをしていることからも伺える。

 

映画にあって、見つめあった瞬間男女(「男男」でも「女女」でもいいのだけれど)が恋に落ちるってのは、奇跡というより当たり前だ。だからここでふたりが恋に落ちてるとしても、それはまあ理解できる、しかし、『キャロル』(2015年)におけるキャロルとテレーズの視線の交錯に比べたら、あまりにも画面がゆるゆるな気がする。理解はできるけど納得できない。

 

『ラ・ラ・ランド』は「ミュージカル映画」であるにもかかわらず、顔のクローズアップがめちゃくちゃ多い。そのわりにひとつひとつが決まっているとはどうしても思えない。それが「どうしてなのか」はよくわからない。
とりあえず、演者のクローズアップより、透けて見える監督のドヤ顔の方が気になってしまった。ミュージカルというジャンルが要請するから思う存分留保なしに長回しできるのかもしれないけど、それにしたって、どうにも編集のリズム、長回しを含めたショットの組み合わせのバランスが悪い気がするんだよなあ。なんでだろう。

 

ミュージカル部分は唯一ミアが最後のオーディションで“My aunt used to live in Paris”と語り始め歌いあげるところに泣かされたけど、あとはあんまり高まらなかった。俺はダンスを見る目をまったくもっていないので、ふたりがタップダンスしてるところもよくわからなかったりして残念だったのだけれど、ミア=エマ・ストーンの歌いっぷりは『レ・ミゼラブル』(2012年)のアン・ハサウェイをちょっと思い出した。

しかしこれは有無を言わせず泣かせるなあ……。

 

 

と、いろいろ文句を言ったのに、見終わって帰ってきてからずっとApple Musicでサントラを聴いてる。楽しい。もう一回見たいと思ってしまう。なんでなんだ。

 

それは、『ラ・ラ・ランド』が、セブの姉が冒頭で言っていたように、ロマンを捨てられない男の夢を描いているからかもしれない。愛した女にできる限り尽くして、しかし避けられぬ別れが訪れ、数年後再開したとき、ふたりは互いに互いの人生を成功させている……。長い人生に、ひとつくらいこういうロマンチックな物語があると、男に箔がつく。ひとりで家事もこなせちゃうし、自分の店も持ってるし、好きな音楽を好きなようにやれる、でもそんな俺にも生涯愛し続けてるたったひとりの女がいるんだ、というストーリーは、やっぱりドヤ顔で語りたくなっちゃう。俺だってこんな思い出が欲しいような気がしてくる。
だから極端な話、女はどんなキャラクターであっても関係がない。男のロマンの投影にすぎないから。エマ・ストーン演じるミアがどういう女なのかよくわからなくてもいいのだ。というか自分のロマンを投影するための対象物だから、そいつについてのパーソナリティーはわからない方がいい。
この気分って大根仁『SCOOP』(2016年)にも感じた。あれは福山雅治の周りの人間たちが福山について語っているというより、福山雅治の亡霊が、俺を愛した女たち(男たち)について語っている物語だと思う。

 

『ラ・ラ・ランド』を見終わり、なぜかはやくジャド・アパトー「LOVE」のシーズン2が見たくなった*2
ミッキーが恋しい。

 


 


 

*1:でもまあ好意的に見れば、家に居たら彼氏のピアノの音色は聴き放題だから、それゆえにわざわざ彼氏のバンドの音源なんか聞かなかったのかもしれない。

*2:Netflixで3月10日から配信開始。