ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

小石

保育園に娘を預けるようになってから、この国の3連休の多さに気づいた。「3連休」には「休む」という言葉が入っていますが、ぜんぜん休みなんかじゃないですね(©小泉進次郎)。

 

子供が家にいると、家事すらままならなかったりする。買物に行くのも億劫だ。自分の身支度すら面倒なのに娘も着替えさせるのはしんどいから、おでかけもほとんどできてない。しかし天皇誕生日を挟んだ今回の3連休は、2回も娘を公園に連れていけた。多分、春の近づきを無意識に体が察知していたんだと思う。娘と外に出てみようという気になった。公園にいる娘はいつも地面に夢中だ。ほっとくとずっと小石を探しては手に入れている。いつもは陽気でよく笑う娘だが、公園ではいつもしかめっ面で腰をかがめ地面に見入っている。庭いじりじじいのような趣。渋い。

娘の見つけてくる小石は、他の小石よりつるつるしていたり光沢があったりユニークな形をしている気がする。しかし俺はつとめて小石を手にしたことがないので娘が持ってくる小石以外を知らない。娘の“小石眼”に感心しているのも親の欲目かもしれない。こんな瑣末なことにまで欲目が出てくるのは、俺が親だからなのか、それとも俺が俺だからなのか。

 

3月に入るとわが家のあり方は一変するだろう。妻は新しいことを2つも始める。そのための準備に忙しそうだ。妻はいつも知らぬ間に前に進んでいて驚く。自分の実力を見くびってないんだろうな。俺は俺を損なっている。

娘は日毎に成長していてこれまた驚く。娘は自分の能力や未来なんかに気をとられることなく、自分の感情にだけ忠実に動いていて、その動きは世界を広げ、結果的に彼女の能力や未来に繋がっていく。今年に入って俺はまったく動かず自閉していた。

こうやって書けるようになったのも春の訪れを微かに感じているからだろう。綺麗な小石を見つけたような気がした午前2時。

『フォード vs フェラーリ』の感想ではない

眠れない男が寝室を出て廊下を歩いていると、子供部屋から光が漏れている。まだ起きていた息子に何をしていたのか尋ねると、息子は自ら描いたコースレイアウトを男に見せる。息子の正確な絵を見ながら、男は完璧なレース運びを話してやる。目を覚ました女がその様子を見る。翌日、男は「ル・マン 24時間耐久レース」に出るため、フランスへと旅立つ。息子も妻も、そのレースの重要性と恐さ、そして男のレースに賭ける想いをちゃんと知っている。

『フォード vs フェラーリ』のこのシーンでとめどなく涙が流れてしまった。「俺の涙はまだちゃんとしょっぱいだな」と思うほどに泣いた。コースレイアウトを見ながら、父と息子はコミュニケーションが取れてしまうその関係性に泣いた。息子はいつも父の仕事場にいるし、ツーシートの助手席にも時々乗せてもらう。

思ったことをすぐに口に出してしまって、喧嘩っ早い職人気質で、しかしその才能と技術は天賦のものだからこそ、社会のほうでは男の扱いに困ったりもするわけだけれど、家族にとっての男は、良き夫で良き父だ。男と家族の話は徹頭徹尾、男の仕事の話に終始するというのに、家族は彼をパーフェクトに受け入れている。「そういう男の姿に憧れて俺は泣いてる」と思っていたが、しばらく経ってはたと気づく。こんなに泣けてしまうのは、スクリーンに映る男の姿に憧れているからだけでなく、あんな父親が欲しかったという後悔すらできない哀しみに撃たれていたからだった。

 

僕の父は建築士だった。家族でドライブをするたびに父は「あれはお父さんが設計したんだよ」と言ってさまざまな住宅やビル、校舎や体育館を指差したものだった。しかし僕は彼のそういう姿を苦々しく思ったいた。自分の仕事をわざわざ口にしてどういうつもりなんだろうか、僕ら家族になにを言ってほしいのだろうか、褒めてほしいんだろうか、と思うと父が小物に見えてしまって「そうなんだ」と相槌するしかできなかった。

休日には庭で焚火をして芋を焼いたり、日曜大工に勤しんだり、趣味のボーリングに出かけたりしていた。僕はそのすべてがイヤだった。庭から立ち上る煙が2階のダイニングに入り込んでくることも、休日の朝からトンカチやらノコギリやらで音を立てることも、ボーリングのフォームがちょっと滑稽なことも、みっともないと思っていた。

でも今となっては当時父のやっていたことのすべてに憧れている僕がいるのだ。焚火ができるような庭を持つ家を建てたことも、日曜大工ができる器用さも、ボーリングに没頭していく凝り性も、そのすべてが今の僕にはないものだから。父にもっといろんなことを教わればよかったのに。僕は母の言うことをすべて鵜呑みにして、父のことを「ダメなやつ」だと決めつけ、彼のやることなすことすべてを否定しまっていた。学ぶべきことは多かったはずなのだ。父は「一緒に火をおこそう」「ノコギリ教えてやるよ」「ボーリング行くか?」と不器用に誘ってくれたのだし。幼少期の僕は、バイクに跨る父の腰に手を巻きつけたし、床屋にも連れてってもらった。スターウォーズティラノサウルスの骨や皇后ジョゼフィーヌのティアラやヤクルトスワローズのオープン戦だって見せてくれたというのに。

 

『フォード vsフェラーリ』の父子は幸運にも、車の仕事によって十全に分りあえていた。その姿に僕は憧れて、泣いてしまったのだ。そして、こういう父子ほど別れなければならないのだろうな、ということに薄々気づいていたから、涙を止めることができなかった。

僕と父はお互いまだ生きているが、もう2000キロ近くも離れたところで別々の暮しをしているわけで、彼とは一生通じ合うことはないだろう。GT40を完璧に乗りこなせれば半日足らずでたどり着ける距離だが、僕はあいにくペーパードライバーでまともに運転ができない(さらに言えば自転車にもろくに乗れない)。

 

自分の家族とは、子供とは、分りあいたい。30年前、父もそう思っていたことだろう。

「千鳥の大漫才2019」は無意味が希望だった

ニートのころに書いていたブログの文章を読んで、僕のことを「高等遊民だ」と言ってくれる人がいた。当時の僕は一生ニートでいられるわけもない、と思って少なからず焦ってもいたから「高等遊民だなんて無責任なこと言わないでくれ…」と思わなくもなかったけれど、でもやっぱり社会の外から人びとを見つめていた僕の瞳はある種の煌めきを孕んでいたんだろう。僕の感傷や焦燥はひたすらに無意味で無価値で、だからこそ日々の労働や人間関係に忙殺される社会人にとっては美しくも見えたのかもしれない。曲がりなりにも仕事をするようになり、結婚をし、子供を持ち、僕はすっかり意味と価値にがんじがらめにされていて、逃れようもなく喘いでいる。あのころの瞳の輝きはとうに失ってしまった。

 

先日、千鳥という芸人コンビの単独ライブ「千鳥の大漫才 2019」を見た。娘をベビーシッターに任せ、妻とふたり、会場のLINE CUBE SHIBUYAに行く。新築の匂いがまだ色濃いその建物で見た千鳥の漫才は教訓や感慨をまったく生まず、ただひたすらに馬鹿らしくて可笑しかった。安くないチケット代を払い、チケット代よりも高いベビーシッター代の工面に苦労して赴いたのに、なんの実利をもたらすこともなく、ただひたすらに「お笑い」に徹した漫才と寸劇(といっても1時間)を見せられる。この無意味さに僕はすっかり痺れてしまった。彼らの瞳はギラギラと無意味を見据えていた。

千鳥の漫才はテレビで見るのよりずっと愉快で、オール巨人と行くグアム旅行を紹介する旅行代理店の女・細とかげしっぽきり美の人生の奥行きや「開いてる店は開いてるし、閉まってる店は閉まってる」というトートロジーだけで最後まで突っ走る無邪気さにメロメロになってしまった。

芝居「大悟道」での西遊記も、新喜劇以下の寒い芝居が、ノブのツッコミによって「テラスハウス」を副音声で見ているときのように楽しめてしまう。オチは、それまで舞台上の登場人物の誰にも見えずストーリーに全く絡まなかったダイアンのユースケが実は凶暴な猿で、全員を惨殺して悟空の持っていた桃を奪う、というもの。この無意味さにも呆気をとられて笑うしかなかった。中村アンや山崎育三郎といった豪華なゲスト陣も完全に無駄遣いで、その無駄さが心地いい。

 

無意味や無駄を楽しむには余裕が必要で、社会に生きてしまうとそんな余裕を失ってしまいがちだ。けれど少し無理をして無意味を見に行ったあの夜は、想像以上に心を軽くした。

千鳥の生み出す大いなる無意味は、生産性とか将来性とか貯金とか健康とかを一瞬忘れさせてくれる。千鳥はこんなにもブレイクしたというのに、アウトローであり続けている。社会を周縁から見つめる視座を失わない。

とことん無意味に笑った僕らも、大悟の体現する無頼とバランスを取ってくれるノブという凡庸に擬態する存在のおかげで、すんなりと日常に帰れてしまう。軽くなった心で、また日常をなんとかこなしていく。

 

妻といっしょに会場から原宿駅まで往復を歩いたのだけれど、タクシーに乗ればあっという間につくような距離をわざわざ歩くという甘美な無駄はえらく懐かしいものだった。結婚する前は何に罹り患うこともなく、こんなふうにだらだらと歩いて意味のないおしゃべりに耽っていたのだ。無意味だけが希望だと思える夜は、千鳥のおかげでもたらされたのだった。

 

 

しかし今の僕は、意味の美しさだって知っている。その美しさを言葉にする術をまだ持たないのだけれど、そのヒントは空気階段というコンビがくれるんじゃないか、と密かに思っている。アウトサイダーが社会に居場所を確保していくその軌跡が、僕の今の支えになっている。空気階段が踊り場での足踏みを終え、階段を駆け上がる様を見つめ続けていれば、僕もこの人生をもっと上手に愛せるようになるはず。

台風一家

我が家に関しては、台風19号はあっけなく去っていった。昨日はミネラルウォーターやカップ麺、娘のベビーフードやオムツを買うために町をうろつき、溜まっていた洗濯物をある程度片づけたりして疲れたけれども、まあ大事に至らなくてよかった。1歳5ヶ月の娘を連れて避難生活なんて、想像するだけでうなだれてしまう。

でも、どこかで全てが吹っ飛ぶことを淡く期待していたりもし、このアンビバレントな気持をもてあましているうちに、一日は終わってしまった。

 

生まれてから20年間沖縄本島に住んだが、沖縄を通過する台風はとにかく遅かった。今回の台風の場合、関東に来るころには時速30キロくらいだったので、暴風域が広いとはいえども、雨はともかく風の強い時間は2〜3時間くらいではなかったか。でも、沖縄を通過時の台風の速度は「時速10キロ」はザラで、「ゆっくり」なんて表記も珍しくない。丸一日暗い嵐のなかにいる。そんな子供のころは、一日中家の中でテレビを見たらお菓子を食べたり人生ゲームをしたりして暇を潰していた。

台風の目通過後の吹き返しなんてのも、時速が遅いからこそ警戒すべきものであって、東京にいるといつ台風の目が頭上を過ぎたのかも分らない。

 

沖縄の実家は海抜が低く、水捌けも悪い場所にあったので、大雨が降ると、一帯が浸水した。家自体は少し小高いところにあったため浸水することはなかったが、駐車場から車を出すとタイヤがほとんど見えなくなるまで水嵩が増していることはままあった。

大雨が降ると、母は窓の外をしきりに見る。辺り一帯が水没して、陸の孤島になった家に取り残されることをひどく恐れていた。子供の僕は、陸の孤島に取り残されてヘリやボートで救助されたらひどく楽しいだろうな、くらいにしか捉えていなかったので、母の怯えは滑稽に思えた。しかし今なら分るが、彼女は僕と妹を連れて避難することの困難も考えていたはずだ。母は自分の不安感だけで狼狽えていたのではなく、僕らを守れるか心配していたんだろう。

台風が近づくと、父は家中のガラス窓に目張りをし、庭の植木をひとりで全部片付けた。結構な量だったように思うけれど、別に手伝えとも言われなかった。僕が台風の到来(と休校)にわくわくしているのと同様に、台風情報を逐一確認する父も、台風に興奮しているように見えた。彼の台風対策の手際が良いのは、子供の目には父が「楽しいこと」をしているからだと思えた。ただし、父にとっての「楽しいこと」が、僕にとっての「楽しいこと」であるとは限らない、という真っ当な感覚は子供ながらに持っていたので、僕は彼を手伝わなかった。しかし事実は違う。母と同じように父もまた、台風に正しく怯えていただけなのだと思う。自分で建てた念願のマイホームが壊れるのは嫌に決まっている。それに父は建築士だったので、自分の設計した建設中の建物への影響なんかも気がかりだったはずだ。しかし父は台風の到来に苛立つこともなく、淡々と対策し、台風情報を注視していた。

 

僕は守られていたんだな、と今さら知る。今回の台風到来に怯えていた自分を省みて、自分にも守る家族がいるんだと改めて実感して、はじめてそう思った。子供だったころの自分はそう悪くない家庭に育ったんだな。父と母はそれぞれ思うところがたくさんあっただろうに、それでも家族を案じ、家庭を守ろうと彼らなりに踏ん張っていたんだろう。彼らにもきっと、台風がすべてを吹き飛ばしてくれたらいいのに、なんて思う瞬間もあっただろう。それでも僕はこうやって生きている。彼らにはいろいろ思うところもあったが、素直にすごいなあと思ったりした。

 

それはともかく、事前準備の猶予がある台風はまだいいけれど、突然来る地震に対しての備えってのは日常でしかやれないので、真価を問われるのはいつか必ず来るその日かもしれない、なんて思ったりもする。

 

台風一過の夜道を歩きながら書いた。

「大森靖子生誕祭」(2019年)をシラフで見た感想文

大森靖子さんの生誕祭に行った。

2016年がはじめての参加だったから、今年で4回目。2016年の大森さんは29歳だった。今年は僕が29歳。なんだか途方も無いものを感じてしまう。今年、大森さんは32歳。

 

生誕祭に毎年出演するジョニー大蔵大臣さん(水中、それは苦しい)とぱいぱいでか美さんは、毎年ここでしかパフォーマンスを見ていないのもあって、毎年恒例行事感が増す。生誕祭の帰り道にいつも口ずさんでしまうのは「PAINPU」だったりする。

そういえば「芸人の墓」も聞きたかったな。水中、それは苦しいのライブ見に行くしかない。

 

毎年ここでしか会わないふたり(ぱいぱいでか美さんは、ビバラポップでも見れるようになったのだった)のパフォーマンスを見てると、その明るさとは裏腹になぜか「死」を感じてしまう。毎年着実に死に近づいていく僕らという限りある存在が意識されてしまう。ジョニーさんもでか美さんも、盆正月に会うたび目に見えて老けていく祖父母とは違って、見るたびにパフォーマンスに磨きがかかっていて進化しているのだけれども、その“変化”が1年という時の長さを突きつけてくる。ジョニー大蔵大臣の息子がステージに上がり、3人で「チュープリ」(ZOC)を披露していたが、その息子が1歳くらいのときに大森さんの月イベント「続・実験室」に登場したのを僕は見ている。彼は圧倒的成長過程にあるけど、でもやっぱり僕らと同じように死に近づいている。なぜだかそんなことばかり考えてしまう、おめでたい場なのに。

 

と思ってたら、大森さんは黒に身を包んで現れた。天邪鬼な彼女は、おめでたい場にみんながピンクを着てくるだろうから逆に喪服を纏ったと言っていた。 話は飛ぶけれど、アンコールでケーキを持って出てきたジョニーさんが「僕は5番師匠だけど、ほかの4人の師匠は誰?」と聞いたとき「加地さん?まあもう死んだけど。私、超えたしね(笑)」と言っていたのにグッときた。メジャーデビューして、超歌手になって、ビバラポップというアイドルフェスのプレゼンターを務め、ZOCを作りアイドルにまでなった大森靖子のはじまりの場所には加地等がいたこと、その人はもう死んでしまったということ。生前の加地等さんを知らない僕がこんなことを知ったような顔で書くのは憚られるけど、そんな軌跡に想いを馳せて勝手に感傷に浸ってしまった。

 

【セットリスト】

1.Over The Party

2.ZOC実験室

3.Re: Re: Love

4.VOID

5.非国民的ヒーロー

6.MC(ホールコンサート開催とベストアルバム発売の発表)

7.7:77

8.JUSTadICE

9.きもいかわ

10.君に届くな

11.アナログシンコペーション

12.あまい

13.TOKYO BLACK HOLE

en)

1.ミッドナイト清純異性交遊

2.絶対彼女

 

大森さんのライブは2017年の三十路初のライブと同じく「Over The Party」で始まった。「進化する豚」のフレーズを会場全体で叫ぶのいつまでたっても痛快。個人的に「イカれたニートイカしたムード」を聴くと未だにドキッとする。一気に白壁に囲まれたワンルームに引戻される。

「ZOC実験室」を経ていきなりの「Re:Re:Love」に面食らう。聴きたいと思ってた曲が序盤に来ると、まだ状態整ってないからうまく受取れなくなってしまう。

そういえば今日はいつぶりか覚えてないくらい久しぶりに、シラフでライブを見た。大森さんにはなるべくシラフで挑もうと思ったから。

500円と交換したドリンク券をミネラルウォーターと交換するのすごく贅沢で一瞬躊躇われてしまった。アルコールを入れずに臨むライブは心が浮ついてしまって最初から没入することができなかった。ここ数年、僕はアルコールに頼り過ぎていたなと感じる。シラフでライブハウスにいると、漂うビールの香りに気づく。

「Re:Re:Love」のときもまだどこかそわそわしていて、まともに受けきれなかったのが悔しい。峯田のパートを歌うサクライケンタさんの声が少年と青年のあわいを漂うようですごくよかった、まだ未熟で苛立ちも感じさせるけれど、その視線の先は途方もないところを見ている、そんな歌声だった。

 

「VOID」の前のMCだったか、大森さんが「私の部屋で生まれた曲があなたの部屋に届いてライブハウスで会えた」というようなことを言った。思えば、空間に間仕切りのないライブハウスも巨大なワンルームだ。“一番汚いとこ”見せ合う“ワンルームファンタジー”が繰り広げられる空間。僕を守ってくれて、かつ、僕をひとりぼっちにさせないワンルームは、大森靖子が歌うライブハウスだった。大森さんが「家を抜け出して僕の部屋においで」と、イヤホンを通してずっと誘いかけてくれたから、2014年の僕は大森靖子に出会えた。それから人生が少しずつ進み始めたんだった。

 

「JUSTadICE」での大森さんの舞は、ZOCの振付を担当するrikoさんを彷彿とさせながらも、rikoさんのしなやかで優美な動きともまた違う、力強いものがあった。

大森さんのステージ上での動きでいうと、腕と手の動きは遠くからでも見通せるからやはり見逃さなくて、“夢の延長戦地球に刺繍する」ところのなまめく手は妖しげで、「アナログシンコペーション」で腕をスッと渡る指先は、刃物で腕をサクっと裂いているようで鮮血を幻視してしまい、目を背けたくなるほど美しい。

 

今日もっとも感動したのは「きもいかわ」「君に届くな」「アナログシンコペーション」の流れだった。「きもいかわ」はアレンジが素晴らしかった、幽玄が煌めいて東京の今を満たす。「助けてって言える人生でいてね」という言葉に震える。「『助けて』って言っていいよ」という赦しと、そんな人生を生きられますようにという願い、そして、助けること・救うことは本質的には他者にはできないという諦念からしか僕らはスタートできないという達観まで込められた、祈りの言葉だと思った。「叫んで喉が切れる血の味が好きなだけ」って歌詞がいつもより切実に聴こえた。

「君に届くな」は大森さんの楽曲のなかでも、一二を争うくらいに好きな曲で、去年の生誕祭では「流星ヘブン」と「死神」に挟まれての演奏だったが今年も聞けて嬉しかった。今年は「きもいかわ」と「アナログシンコペーション」を繋ぐストーリーの要になっていた。「きもいかわ」で“僕は僕を守るもの”とつぶやいた孤高の存在は、「君に届くな」で“全世界にぶち撒けたい私のすべてを 君に届けたくないほど 君が好き”といって愛する他者との繋がり方にもがき、その果てでかすかに「アナログシンコペーション」する、その物語の美しさ。“こんな愛を捨ててしまおうか 使い方次第でひとつの世界を終わらせてしまう 形ない核兵器”という歌詞の意味、ようやく分った気がする。

 

大森さん、曲を作っても作っても、一曲ならこれだけの質量込められるんだなって驚くほど曲が生まれる、と言っていた。まさに“愛は生まれすぎる 歌ってもまだ”のフィーバータイムを永遠に続けられる人。楽曲提供するとき、それを歌う人を愛さないと曲なんか描けないと大森さんは言うけれど、「形ない核兵器」な愛の使い方を、こんなにも真摯に考え続けて行動し続けている人を僕は他に知らない。愛は生まれてしまうからこそ、きちんと扱わなくちゃいけない。生まれた愛を暴走させず制御してエネルギーに変える努力を怠っている僕らは、もうちょっと大森さんを見習って生きるべきだ。愛を正しく使いたい。

 

本編ラストの「Tokyo Black Hole」、サビの歌い方が今までと違っていて、東京の暗渠を蠢くようなメロディラインにドキドキした。あとさっき手と腕の動きのところで言い忘れたのだけれど、「弱い正義で今宵射精」と歌うときの右手首のしなやかな気だるさにもドキドキしました。

 

アンコールは「ミッドナイト清純異性交遊」と「絶対彼女」。5年前にはじめて聴いたアルバムの冒頭2曲を聴きながら思っていたのは、今当たり前のように楽しんでいる大森靖子の歌とダンスが、5年前からはとても想像がつかない境地のパフォーマンスだということ。あるときまでは“泣きのあと一曲”の「さようなら」を求めていたけれど、今はそんなのが蛇足になってしまうほどに、大森靖子の音楽が完成されていて、唯一無二の高みにたどり着いている。歌い方だってこの5年でもだいぶ変化しているし、アルバムも毎回全然違ったアプローチをしてくるから凡庸な僕は受止めるのに毎度時間がかかってしまう。それでも大森靖子の音楽がずっと僕を捉えて離さないのはその魂が変わらないからで、だから僕はやっぱりずっと、命尽きるまで大森靖子の作る音楽と、彼女自身が好きだ。

 

今年は「絶対彼女」のときにサビのフリを小さくだけれど恥ずかしがらずにできたことが嬉しかったです。妻もいっしょに行ったから億劫がらずに物販もたんまり買えた。

発表されたクリスマスイブのホールライブ、大森さん自身はもちろんファンも待ちわびていたストリングス構成で心底楽しみ。絶対むせび泣く。正装して行くために痩せよう。

というかその前に47都道府県ツアーのファイナルの方が待ち遠しいのだった。生誕祭のシンガイアズの仕上がり過去最高だったので、その集大成はとんでもないことになるだろうな。すごいな、死ぬ瞬間まで衰えないんだろうな。大森さん誕生日おめでとうございました!

「ビバラポップ!2019」感想文

4ヶ月前の2019年5月2日に行われた「ビバラポップ!2019」感想文。日記のなかにあった文章だけれど、「ビバラポップ」部分だけ分けて置いておこうと思い、一部修正して再投稿。

連休 - ひとつ恋でもしてみようか

9月16日までGYAO!でライブハイライトが配信されているので、まだ見てない方は是非ご覧になってください。

 

また、初回の「ビバラポップ!」についても書いてます(サイトの仕様で一時的に画像が消えて読みにくいですが…)。

ビバラポップ!が描いたアイドルの歴史と今この瞬間に生まれる物語 「VIVA LA ROCK EXTRA ビバラポップ!」フェスレポート – DE COLUM

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5月2日、「ビバラポップ!2019」に行く。

去年から始まった、大森靖子ピエール中野がプレゼンターを務めるアイドルフェス。ビバラロックの会場を利用して開催される。ふだんはまったくアイドルのライブには足を運ばないのだけれど、このフェスは大森靖子の作品のひとつだと思っているから、ためらいなく参加した。去年よりも規模が縮小して、ビバラロックのメインステージではなく、地下のcave stageというところで1600人限定で行われたビバラポップはなんだか密教的な祝祭空間だった。『マトリックス』のザイオンようでもあり、『ファイトクラブ』の地下拳闘場のようでもあった(例えが絶妙に古い)。

 

ZOCの人気ぶりに圧倒されつつ、初めてライブで聴く「family name」のハマり具合に涙した。大森さんは「こんな良曲ソロによこせよっていう大森靖子スタッフの視線を受け流しながら(冗談です)それでもZOCが歌うからこそ意味があるのが、誰にも伝わる曲です」とブログに書いていたけれど、たしかに「family name」はZOCがいたから、ZOCへ捧げたから生まれた曲だと、このライブで確信した。まだ結成半年だからパフォーマンスは荒々しいけど、それもまた初期衝動的で素直に心打たれてしまう。

薄々感づいてはいたけれど、この日のライブを見て、自分がにっちやん推しなのを悟った。生うどんの頃より大人びた彼女の、飄々とした笑顔と振舞い、安定感あるパフォーマンス、そしてツインテールにやられました。妻に「俺、にっちやん推しになった」と報告すると「にっちやん推しはガチっぽい」と言われたんだけど、ガチで推してるから推し宣言したわけなので、トートロジーだと思った。

あとビバラポップは1年ぶりのブクガは相変わらず気持ちよかったのと(やっぱりワンマンにひとまず行ってみたい)、Juice=Juiceの圧倒的クオリティに脱帽した。ハロプロへの入口がよくわからないので、ビバラポップは重宝している。去年こぶしファクトリーに出会えたのも嬉しかった。来年はどのグループが来るだろう。

そして至近距離で目撃した道重さゆみの肢体と汗に畏敬の念を抱きました。先日行った「サユミンランドール 東京」では完成されたコンセプトとしての道重さゆみを体感した満足感に支配されたのだけれど、今回は人間・道重さゆみの生身が放つ眩さに撃ち抜かれた、リアルはすごい。大森さんとの「絶対彼女」コラボは微笑ましかった。

大森靖子コラボステージはなんといっても道重さゆみを招いての「VOID」に尽きる。ギターストロークが鳴った瞬間泣いてしまった。初恋の人・峯田和伸に歌ってほしい曲を、敬愛する推しといっしょに歌う……。初恋と敬愛を観客の前でブレンドして突きつけてくる大森靖子の強欲とそれを実現する腕力にひれ伏した。そして我々大森靖子ファンの身悶えを吹き飛ばす湿度0%・太陽燦々な道重さゆみの「家を抜け出して僕の部屋においでー!」という誘いには思わず笑ってしまった、こういう救い方ができるアイドルが道重さゆみなんだな、と知る。大団円ラスト、出演者ほぼ総出の「ミッドナイト清純異性交遊」で香椎かてぃさんが所在なさげに突っ立てたのに感動して僕の今年のビバラポップは終わった。また来年!

ZOC1stワンマン「We are ZOC」感想文

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大森靖子が生んだZOCのZepp Tokyoでの1st ワンマンライブ「We are ZOC」は、想像をはるかに上回るクオリティとエモーションをぶちまけていた。その最大瞬間風速は、あらゆる呪いやしがらみ、過去をねじ伏せて旋風を巻き起こす彼女たちは、高純度の「今がいちばん幸せ」を体現していて、まんまともらい泣きさせられた。彼女たちのその幸せがいつまでも続くことを祈ってしまう。これがアイドルを推すということか、と気づいてしまった。

 

誕生の瞬間を知っている唯一のアイドルグループ「ZOC」のライブを見るのはこの日が3回目。1回目は去年9月18日に行われた大森靖子の生誕記念ライブでのお披露目だった。

はじめてのステージでは、大森靖子の既存の楽曲のみをパフォーマンスしていたZOC。そのときのライブを僕は次のように感想していた(書き残しておくってほんと大事だな)。

大森靖子の歌を体を使って表現する行為は、とても危うく、それでいて抗えない魅力がある。大森靖子の歌を解釈したうえで、踊り歌えば、その人の本質は根本から変わるだろう。それは、ワクワクすることであると同時に、恐ろしいことでもあると思う。これまでの自分とは決定的に変質してしまう、その変化によって、それまでのあいだに作りあげた自分がまったくなきものになるかもしれなくて怖い。でも、その恐怖は希望と表裏だ。

今読み返すと、僕が完全に間違っていたことに気づく。ZOCのメンバーはみな、「これまでの自分」を変えたくなくて(あるいは変えられなくて)、どうしようもなく自分自身でしかありえなかったその心と体を守り抜くために、大森靖子のもとに集ったのだった。

僕は、大森靖子の歌を聴くことで様々な真実を知り、生き方が変わった人間だから、ZOCの彼女たちも僕と同じように変わりたくてグループに加入したのだと思い込んでいた。しかし、ZOCはみな、大森靖子の歌を聴いて、「これは紛れもなく私たちのことを歌っている」と思ったのかもしれない、救われたのだろう。だから、大森靖子の描く歌をパフォーマンスすることは、自分自身の存在証明に他ならなくて、その行為はこれまでの自分を“なきもの”にするのではなく、自分を確立していくことだった。

 

2度目は今年の「ビバラポップ!」。気合十分の彼女たちに圧倒された。パフォーマンスはまだ覚束ないようにも見えたけれど、それを補って余りある感情が炸裂していた。はじめて生で聴く「family name」には当然のように泣いた。

 

 

そして今回のワンマン。正直に言えば、この日どんな素晴らしいパフォーマンスが見れるんだろう!という期待はあまりなかった。めでたい場になんとしても駆けつけたいという思いだった。節目を目撃しておこうなんてな具合に、スタンプラリー的に楽しみにしている節があった。

しかし、僕の予想はいい意味で裏切られた。彼女たちは、この1年たしかに進化を遂げていた。日本中でライブをしてきたし、個々の活動も充実していた。僕は何も見ていなかったから、この日を見くびってました。ごめんなさい。

 

ひとりずつ登場した彼女たちの崇高さに目を釘付けにされる。凛として登場する藍染カレン、冷徹な眼差しで前を見据え歩く戦慄かなの、香椎かてぃのふてぶてしさ、西井万理那の天真爛漫、兎凪さやかのキュートネス、そして大森靖子から迸る気合と自信を見ただけで、「このライブ、来てよかった」と確信。

 

「ZOC実験室」に始まり、「GIRL'S GIRL」と大森靖子の直近のアルバム『クソカワPARTY』の楽曲をパフォーマンス。

 

 

 

ステージ上空には巨大なシャンデリアが下がり、垂れる真紅のカーテンが彼女たちの舞台を象る。フロアを射る鋭いレーザービームに高揚させられ、ZOCのためだけにあつらえた音響が彼女たちの地力を正確に伝えてくる。

かなり後方から見てたので、メンバー全体が見えることは一度もなかったけれど、スクリーンがステージ上方にあることで、メンバーひとりひとりの表情や動きが観れたのは嬉しかった。

 

MCを挟んでの「IDOL SONG」に泣かされる。数多のアイドルの自己紹介を繋いでいく歌詞は、まるでレクイエムのようだから。「私はここにいます」というアイドルたちの叫びを可愛らしくコーティングしたこの曲は、愛に満ちている。それを今ZOCが歌っていることの奇跡と刹那に胸を締め付けられる。

 

チャイニーズっぽいビジュアルの映像をバックに、初披露された「断捨離彼氏」はハロプロ感あるダンスミュージックで、「だんだん 男子全員今キモい」と歌う。

男子としてちょっぴり切ない気持になりつつも、「泣いて叫んでれば様になる」恋愛で、「アドレナリン出て楽しかった」けれど、「でも、それだけ」と言い放ち、過去の男に「バイバイ」する清々しい曲で好きになった。「これが恋って騙せないよ そんな魅力ニセモノだよ」と、くだらねえ男との日々を脳内物質の見せた錯覚だと教え諭して唾棄させる曲、僕も大学生のときに聴きたかったよ。大学生の頃の彼女は、僕が大森靖子の話をするとイヤそうな顔をしていて、それがとても辛かったから。もっと早くバイバイすればよかった!こんな後悔ダサすぎるから、さっさとバイバイできる人間になろう。

 

ソロ曲コーナーも素晴らしかった。他己紹介的リレー形式のメンバー紹介がVTRで流れ、ひとりずつパフォーマンスする流れで飽きない。

楽曲は戦慄かなの「more きゅん奴隷」と、西井万理那「それな!人生PARTY」が気にいりました。

戦慄かなのがリズミカルに歌う「more more きゅん more more きゅん くれよ」のリフレインに不覚にもときめく。この日の戦慄さん、へそ出しで白く艶めかしいくびれを見せていてただでさえ魅力的だったのに、ダンスもしなやかで、イメージ上の戦慄かなのをはるかに上回る魅力を放っていてドキドキしてしまった。「断捨離彼氏」のセンターも戦慄さんだったので、彼女のアイドルとしての魅力にようやく僕も気づきました。

西井万理那はステージを縦横無尽に駆け、フロアにカラーボールを投じながら、後半は歌もそっちのけに笑顔を振りまく。魔法の「それな!」でどんな不幸も解除するこの曲は、彼女のイメージにぴったりで微笑まい。

藍染カレン「紅のクオリア」はセーラームーン&宝塚でステージセットにもっともマッチしていてゴージャスだったし、兎凪さやか「愛モード」はくどいほどにキュートでむせ返る。香椎かてぃ「仮定少女」は彼女の業をちょっとコミカルに、ヤンキーテイストでクールだった、かてぃさんの重心ちょい低い振舞い、様になってました。

大森靖子「非国民的ヒーロー」が鳴ると会場はボルテージが一段上がった。声を枯らさんばかりに歌う大森さんからは、超歌手としてZOCのメンバーたちに負けてられないという気迫を感じる。

 

「draw(A)drow」では、上手のお立ち台のうえに立つ大森さんが、下手側に立つ藍染さんに向かって真っ直ぐ腕を伸ばし、指差す姿が神々しかった。

 

ZOCのデビューシングルにして今年最強のロックナンバー「family name」を披露し、新曲「A/INNOCENCE」を初パフォーマンス。新曲は、上品なイントロと「愛のセンス」と「A INNOCENCE」の一致に感動したことだけ覚えてる。個人的に、最近イノセンスの尊さ、それを守ってやることについて考えていたりしたのでグッと来ました。

 

ZOC、みんな修羅場潜ってきてるから、ストリートワイズなクレバーさがあって、かっこいい。結成1周年だというのにMCがスムーズで、ダレることないのが地味に嬉しい。

アンコールのMCでは、ひとりひとりが思いのたけを語っていたけれど、泣きながらでも滔々と喋り抜けられるのは、日々の思考の蓄積の賜物なんだろうな。僕は平静でも、あんなに喋れない。

 

生ハムと焼うどん」時代の挫折から返り咲き、再び大きなステージでパフォーマンスできた喜びを涙ながらに語る西井万理那の「金ももらえるし」発言には笑った。ああいうシビアな話もあっけらかんと話してしまえるにっちやんの尊さ。全員MCでも、会話が途切れたタイミングで、すかさずフォロー入れるあの反射神経が素晴らしくって、彼女はZOCを社会に接続してくれる要だと思った。ZOCでは、大森さんの次ににっちやんが好き。

 

香椎かてぃの「カレンは部屋から出てきてくれて、かなのは少年院から出てきてくれて、にっちやんは生うどんから抜けてくれて…あ、抜けてくれたわけじゃないか。さやぴは…なんとなく女子大生しながらZOCにいてくれて」というMCは、彼女のソロ曲「仮定少女」の「家ねえよ!」の叫びと密接にリンクしていて泣けた。それぞれのしがらみからもがいて抜け出してZOCに集ってくれて「ありがとう」という感謝が集約されていた。

 

「なんとなく女子大生」と言われた兎凪さやかは、ZOCに入ったことによって最も苦悩した人なんじゃないかと思う。MCでは「私なんかがZOCにいちゃいけないんじゃないかと思った時期もある、ステージを大切にしている靖子ちゃんの前でこんなこと言っちゃういけないのかもしれないけど、ステージに立つのが辛かった」と話していた。インタビューでも「グレた時期がある」と語っていた。たしかに、メンバーそれぞれアクが強く、拡散力のある個性を放つZOCにあって、さやぴの「自撮り詐欺」や真っ当にかわいいアイドル性の高さは、むしろ「ふつう」で、面白みがないものとして捉えられてしまいかねない。

しかし大森さんは兎凪さやかの強さを「理想のかわいいが知らない誰かではなく自画像である」とピンポイントに言い当てていた。誰かに化けるのでなく、ひたすらに自分を高めていく孤高の闘いを積み重ねる彼女こそが、実はZOCの信念の部分を体現しているのかもしれない。

兎凪さやかに対して紋切り型からはみ出した肯定の言葉を注がなくてはならないと思う。大森さんも「よそ見するとすぐ拗ねるので丁重に好きでいてください」と言っているので、迅速に。

 

涙を流す戦慄かなのがあまりうまく喋れなくなるのもグッときた。バラエティ番組にも出て、ZOCを知らない層に最もリーチしているであろう彼女。話し慣れているはずの彼女が、感情に飲み込まれて嗚咽する様に、こちらまで動揺してしまう。紛れもなくアイドルだった。「人生終わったって思った瞬間が何度も何度もあった」と泣きながら話す彼女に勇気をもらった。

 

MCトップバッターだった藍染カレンは、それ以降の涙のMCの流れには乗っていなかったけれども、「世界でいちばん幸せ」という嘘偽りのない真っ当な気持ちを率直に言っていた。藍染さんのすっくとした佇まいと、微妙に前のめりな話し方のアンバランスがとても愛おしい。引きこもっていたからこその、純粋培養感が未だ抜けきっていないところが、可憐。彼女がこれからどれだけ洗練されていくのかが楽しみでもあり、切なくもある。

 

大森さんは、「family name」という曲が自分にしては珍しく「神様がくださった曲」だと説明した。ミスiDとは関係なく音楽活動を始めていたにっちやんと大森さん以外のメンバーは、本名でなく芸名で活動している。自分の意志と無関係に与えられた名前から離れ、自分で決めた名前で生きる彼女たち、family nameという呪いから解き放たれた彼女たちが、最後にアカペラで歌った「family name」の美しさにひれ伏した。彼女たちの声は1年前よりもはるかに力強く、自信に満ちている。

 

正直、Zepp Tokyoでのワンマンライブがここまで良いものになるとは思っていなかった。彼女たちのためだけに拵えられたステージや演出、そして客がいれば、彼女たちの輝きはここまで煌めくことができるのだ。Zeppは通過点に過ぎない。ステージのデカさに怯むことなんてなく、彼女たちはステージに《生かされて/活かされて》、さらに飛躍していくんだろう。アイドルを見るって、こんなに楽しいことなんだな。もっときちんと、彼女たちの瞬間を見届けたい!刮目!アフターパーティー行きたい。

 

余談ですが、ZOCワンマン、アルコールの提供していなかったので、半強制的にシラフでクッソ生きてやることもできてよかったです。