ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

生きてるって感じ

6月18日夜
Twitterでいくつかのアカウントに対して、フォローしてしばらく経つとうんざりしてアンフォロー、うんざりが落ち着くと再びフォロー・アンフォロー……というのを何遍も繰り返している。きっとそのアカウントの人は「またこいつフォローしてきやがった」とか思ってるはず、そんなにフォロワーの多い人ではないから。僕は「うんざり」させられたくて、そのアカウントをフォローしたり外したり繰り返しているんだろうか、誰かにうんざりすることで、自分の輪郭を捉え直しているのだろうか。そんな理屈すらない、なんだかただの癖だなあ。そいつのことを昨日は良いように思ったり、明日は悪いように思ったりする、ってだけ。

 

昨日くらいから著しく体調が悪くなり、ずっと横たわってるってな具合で、何も手につかない。でも、それくらいの感じ、生活やら仕事やらもうどうでもいいやって気分のときに、僕は文章書きたくなるらしい。生活礼賛はとても多いし、人生は日々の積み重ねだから生活を大切にしたほうがいいに決まっているのだけれど、どうも性に合わないっぽい。人生が合わない。

 

娘は今日もかわいかったけれど、体調が悪いのでほとんど声をかけてやれなかった、保育園までの道のりをベビーカーを押しながら、通り過ぎていくものにいちいち指差す彼女を無視してしまった、いつもなら彼女の指差した方向にあるものを言ってやる、「あれはサラリーマン」「これは電柱」「緑色」「空気」などと適当なこと。保育園に着いて、娘の正面に回ってベビーカーのベルトを外してやるとき、娘はいつもとびきりの笑顔を見せてくれる。保育園に行けるのが嬉しいからなのか、父親に抱っこしてもらえるのがわかっていて嬉しいからなのか、わからないけれど、その笑顔はかわいい。1歳児の笑顔は嬉しいなんだろうか。

 

好きな人の生き様・表現・感受性がとても好きだけれど、それは僕が僕を生きるうえではあまり役に立ちそうにないかもしれない、と思えてきた。好きな人のもっと根っこの部分-それを彼女は《魂》というんだろう-を大切にしよう。生きる、と、人生、はイコールではなさそう。生きるは運動で、人生は物語。魂は運動に宿ると思う。生きる、ならなんとかやれるだろうか。でも、生きるってちょっとものものしい。生きてる、くらいがちょうどいい。生きてる、を守るくらいしか。

 

自分の気持ちいい場所を見つけたいね、いいかげん。

 

6月19日朝方
これって言っていいことなのかな、と思い立ち止まる機会がとても増えて、それは社会の価値観が急速に変わっているからで、その《ためらい》自体はとてもいいことだと常々思っていたんだけれども、一方で自分が思ってることは「正しくないかも」と怯えて口をつぐむのは卑怯だ、という思いに至った。卑怯、は言葉が強すぎる気もするけど。

 

正しさ、に捕らわれて、自分がほんとうに思ったことを未然に殺してはいけない。「正しくない(かもしれない)言葉」を発して、他者に「それは違くない?」と言われる経験を、過剰に恐れているだけ、だったかも。まあ、他者というか、社会が、過剰に非難してくるから、自分を守るために口をつぐむのは仕方のないことだったかもしれない。けど、言葉を発しながら生きてきた僕が、いまの自分を守るために言葉を殺すのは違うよな。 

 

6月20日真夜中
自分がなんとなく手にいれたものを手放したらその両手には案外なんにも残ってなくて、清々しいような不安なような心持ちの梅雨だ。とか強がってみたいけれど、やっぱり季節の変わり目のせいなのかなんなのかよくわからないが家族みんなで体調崩したりもした、けっこうダウナーな6月。妻の咳が印象深い水無月……とか慣れない言葉使ってみたので、検索したら今年のそれは7月3日から31日までらしく、まだ未知の時間だった。水無月に入るころには妻の体調もすっかり良くなっていることだろう。鼻づまりで味がよくわからないらしい妻が、味覚を取戻したら寿司が食べたいと言っていて、ちょうど僕も今日寿司食べてえなあと思っていたから、気が合うな、と思った。眠る前に妻が「近場で良いから温泉にいきたい」とも言っていて、ちょうど僕も昨日銭湯で温泉いきたいと思ったところだったよ。

 

昨日、合計すると14時間くらい眠ったからか、今日はすこぶる快調だった。保育園の帰り道、ベビーカーに乗ってあれこれ指差す娘の手にハイタッチしたらめちゃくちゃ笑っていた。彼女は別に言葉を求めていたんじゃなくて、リアクションが欲しかったのかもしれない。言葉を持たない彼女は、触れあうほうが今はまだずっと楽しいんだろう。

 

酒を飲みたい気持も回復した。缶ビールを持ってリビングに行くと未だ咳の止まない妻が「ビール飲みたい気持戻ってきたんだね、よかった」と笑っていて、なんだかいろんな気持が混じり合って溢れそうになって泣きそうになったが、いつもの卑屈な笑いでごまかした。僕は、ふとした瞬間に自分が反射的に繰り出す防衛的な笑いがすごく嫌いで、その癖を直したいが、反射なので難しい。上手に笑う妻と、生まれ持った笑顔を放つ娘、彼女らの笑顔を汚したくないんだよ。

『The OA』パート1(2016)

共感を超えて、共鳴・協働することが運命を変え、暗闇にいる僕らを光に導く。あらゆる差異を捨象して「わかるよ」の薄い共感で仲間になったフリをするのではなく、差異や区別を乗越え、瞬間的に連帯する、そうすることで僕らは恐怖に打ち勝てる、たとえ一瞬でもいいから、そのときを待ち望んでいる。

 

『The OA』はプレーリー・ジョンソン(演じるブリット・マーリングは同作の製作・脚本もやってる)の語りでストーリーが進む。行方不明から7年後、無事生還した盲目の女性・プレーリーの口から語られる失踪以前の過去や家出の末に誘拐されマッドサイエンティストの実験台として監禁され過ごした日々、そして視力を取戻した《奇跡》が明かされていく。彼女の語りを聴くのは、地元の高校生4人と学校の先生だ。スクールカーストどころか立場までも異なる人間たちが、毎夜少しずつ語られるプレーリーの過去を聴くことで、おぼろげに心を通わせていく様がすでに感動的だ。僕らは語りに耳を傾けることで、他者の苦しみ・痛み・悲しみに想いを至らせ、その情感を共有することで連帯に向かっていく。プレーリーの過酷な体験、それが饒舌な語り口で持って再現されることで、5人の聴き手たち、そしてわれわれ視聴者は連帯していく。

 

『The OA』を「奇跡を信じることの物語」だといって肯定したり、はたまた「支離滅裂なスピリチュアルストーリー」と唾棄する感想ばかり目にしたけれど、どちらの声もこのドラマを「フィクショナル」なものとして遠ざけて見ている点において同じ穴の狢だと思った。『The OA』は8エピソード使って、語ること・聴くことを肯定しつづけているけれど、ここにはノンフィクションでドキュメンタリーな手ざわりがある。夜な夜な空き家で車座になってプレーリーの話を聴くこの会合は、依存症患者やトラウマ体験を持つ者たちが互いに語りあう自助グループに似ている。話すことで癒しを得るのはもちろん、聴き手も聴くことで痛みを分かちあい、自らの問題とも自ずから向き合っていくだろう。

2018年のアメリカ国内の行方不明者数は60万人を超える。プレーリーの行方不明はアメリカに住む者にとって、決して人ごとではないリアリティがあるのかもしれない。登場人物の高校生たちは、親にネグレクトされていたり、LGBTであったりする。生活にはドラッグが当たり前に溶けこみ、個人の尊厳は緩やかに殺されている。『The OA』で監禁される5人、空き家に集まる6人は、寄り添いあうことで互いの孤独を繋ぎあわせ正気を保ち、生きるほうを選んでいく。アメリカ、ひいては世界中にはびこる断絶した孤独に光を当て、ふたたび繋ぎあわせようとしているのがこのドラマで、だからこれは荒唐無稽な話でもなければ、奇跡のおとぎ話でもない。あくまでもアクチュアルで切実な癒しのドラマだ。『The OA』ではたしかに臨死体験や死者の再生、異次元へ至るアクションといった一見“非現実的想像力”が駆使されているけれども、それはあくまでも現実にアクセスするための入口に過ぎない。現実世界を描くには、科学だけでなく、想像や空想の力が必要だ。だから一見スピリチュアル、というだけの理由でこの物語を忌避しないでほしい。極限状態で“5つの動作”をシンクロさせ協働する彼らの躍動を見れば誰もが撃ち抜かれるのだから。

 

余談になるけれど、なんとなく『The OA』はビリー・アイリッシュの音楽に通ずるものがあると感じた。重低音のなかで言葉のひとつひとつを慈しむようにささやき歌うビリー・アイリッシュを聴くときと、人間とは無関係に屹立する色彩鮮やかな世界の中でプレーリーの語りに耳を傾けるとき、僕らに訪れるフィーリングは同じだ。絶望のなかで生きるのが当たり前になってしまった僕らを癒してくれるのが、ビリー・アイリッシュや『The OA』ではないか。

この世界線を選んでよかった

この人生に決断なんてものがあったろうか、と少し考えてしまったけれど、僕はたしかに決断してた、娘の出産について、だ。
僕は今、あの決断の先を生きているんだった。


妊娠発覚当時、妻は40歳になったばかりで高齢妊娠だったし、僕と出会うよりずっと前に経験した手術によって妊娠しにくい体質になったと聞いていた。
だから、妊娠を知ったときは驚いた。“いつか”も“そのうち”も考慮していなかった僕らにとって、その妊娠は青天の霹靂というほかなかった。


検査薬を使って妊娠を知った妻(当時婚約者)が僕にそれを告げるとき、どんな顔をしたか、僕はほとんど覚えてない。
彼女が妊娠検査薬を使ったのはライブハウスだった。一緒に行った大森靖子の生誕祭の日、彼女はひとり下北沢GARDENのトイレで妊娠を知り、僕に告げることなくそのライブを過ごした。妊娠してるかも、と思いながら、でもその事実を誰にも告げぬままライブを見る心境は想像もつかない。

楽しかったね、と言いながら帰ってきたワンルーム、僕の部屋にちょこなんと立ち、妊娠を告げる彼女の姿はぼんやりとしている。
その一方で、妻が「妊娠してるかも」と告白した刹那の自分の脳みそのフル回転の感触だけは鮮明だ。

「あれ? 僕らの間に子供はできないものだとばかり…」
「でも、これは“喜ばしいこと”なのだよな」
「俺は今嬉しいんだろうか」
「嫌な気はしない、実感はもちろんない」
「仮に嫌な気がしても、“産まない”という選択はあり得ないような気がする」
「でも、俺はまだ仕事もろくにしてないよ?」
「嬉しいけど困ったっ、て感じなのかな、俺は……」
「自分のこともままならないのに、子供かあ」

そんな情けない言葉ばかりいくつも胸に渦巻いた。ノーモーションで妻を抱きしめたりできればよかった、彼女の頭を撫でて涙を流しながら「嬉しい、楽しみだね」くらい言えたらかっこよかった。現実は、ダサい。


当時僕はまともに働いてなかった。2014年9月、就職先もないまま大学を卒業して以来、バイトもせず、沖縄に住む親から最低限の仕送りを毎月もらい、東京に居座っていた。今にして思えば当時の僕は抑うつ状態で、“社会的ひきこもり”だった。幸いお金の心配はないけれど、自分の窮状をあけすけに相談する相手がいなかった。故郷には家族もいたし、友達も恋人(元カノ)もいたけれど、彼らに自分の情けない現状を打ち明けられなかった。助けてくれようとする人もいたけれど、ありのままの自分を見せるのは恥ずかしかった。

そんな孤立無援状態は、ブログを書きはじめることで打開された。八方塞がりの僕は誰かにほんとうの僕を知ってほしい一心で、自分のありのままをインターネットにしたためた。あのワンルームをぶち抜いて脱出したかったから、僕は世界に言葉を吐き出した。

その言葉を見つけてくれたのが、後に妻となる女性だった。彼女は僕のこと(文章)をおもしろがり、心配してくれた。ネットでのやり取りを経て、インターネットに浮遊していた僕以外の複数人も交えてオフラインで遊ぶようになり、やがて恋仲となった。彼女は、ニートの僕を好いてくれたのだった。なにも持たない僕をとことん知ったうえで好いて、結婚しようと言ってくれていた。


彼女は社会を知らない僕をバカにすることもなく、たくさんのことを教えてくれた。彼女といるときの僕はとても素晴らしく素直で(素直がゆえに傷つけることも多々あったけれど)、まるで青春時代を取り戻したかのように楽しかった。すべてをさらけ出し合い、お互いを励まし合い、遊びまくり飲みまくり話しまくった。彼女と出会ってからの1年半は、それまで生きてきた26年間よりずっと濃密で、その濃度にあてられた僕は人が変わった。前を向けるようになった、少しだけれど、自信も取り戻した。
この女性と一緒に生きていけば、ずっとこんな風に楽しく・向上しながら暮らせる、と僕は信じるようになった。だから結婚は必然だった。

 

しかし、子供ができるとなれば話は変わる。妊娠を知る前の僕は結婚しても妻に甘えようと思っていた。妻に養ってもらいながら、自分の小遣いだけ彼女が紹介してくれたフリーライターの仕事で稼ぎ、ゆっくり自分の行く末を見つめよう、という甘ったるい心構えでいた。彼女との結婚は、青春の延長だった。だけど、子供を持つということは、青春からの離陸を意味する。


妻が妊娠を告げた瞬間、僕は迷った。子供を持てば、甘い青春は終わってしまう。というかそれ以前に高齢出産はあらゆるリスクを伴う。胎児がなんらかのトラブルに見舞われるかもしれないし、彼女が死んでしまう可能性だってある。だから、“産まない”という決断も十分にありえた。お腹の中にいるらしい命よりも、僕とかけがえのない時間を過ごした妻のほうが圧倒的に大切だから。


“産む(心づもりでいく)”と“産まない”の反復横跳びを脳内で繰り広げながら、2ヶ月前の妻の言葉が蘇ってきた。

ある夜、僕の部屋のシングルベッドに横たわった彼女は、「あなたとの子供を産めないの悲しいかも」と突然囁き、そして泣いた。子供は持たず、ふたりで生きるという合意が取れてると思っていた僕はうろたえた。「別に子供いなくてもふたりで楽しいよ。もし子供欲しくなったら養子とか考えよう」と笑ってみた。けれど妻は“僕の子供”が欲しいという。
「こんな気持になったのにはじめてなんだけど、あなたと血の繋がった子を産んであげたかったなって思うの、ごめんね」と泣いていた。その“ごめんね”が「産んであげられなくてごめんね」なのか、それとも「こんなこと思ってごめんね」なのか僕はわからなかったけれど、彼女の感情に打ちのめされた。彼女の愛の材質や形状は把握できなかったけれど、とてつもなく大きいということだけが分かった。この愛が柔らかいのか硬いのか、滑らかなのか鋭いのかはわからない。けれども今にして思えば、僕の人生を決定的に変えた愛だった。

そんなことを思い出した僕の脳内反復横跳びは終わっていた。少し間を置いて僕は「すごいじゃん!」と言った、ように記憶する。その後「産もうよ!  あ、でも君はどうしたい?」と言葉を継いだ、はず。

 

高校時代の僕を救ってくれた吉田拓郎の曲「青春の詩」は、どんな生き方をも“青春”だと肯定していた。

さて青春とは いったい何んだろう
その答えは人それぞれで ちがうだろう

どんな形であれ、懸命に生きればその時間は“青春”なんじゃなかろうか。僕は妻と出会ってはじめて、“懸命”であることの美しさと醜さ、かけがえのなさを知ったのだ、それを教えてくれた人間といっしょに新たな命を育てるのは青春かもしれない……と、当時の僕が思ったかどうかは定かでなく、でも今そう思えてるのは事実で、少なくとも、あのとき「すごいじゃん!」と言えなかったら、この未来はなかった。


決断の瞬間なんて、凡庸に生きるほとんどの人にとっては意図的に招きいれることは叶わないもので、否応無しに突如として訪れる危機だ。「決断するための判断材料は多いに越したことない」と教えられた僕たちは、いつ訪れるともわからない決断に備え、必死に学び働き遊ぶ。
妻と出会うまで怠惰に生きた僕は、学びも働きも遊びも知らず、すべてを彼女に教えてもらった。だから、決断の行方は必然だったのかもしれない。


あれからまだ2年も経ってないわけだけれど、実際に娘が無事に生まれ、あっというまに1歳を超え、保育園に通い出し、毎日目に見えて成長する。
フリーライターになった僕はといえば、仕事の質にはむらがあるし、かといって大量生産もできず、売れっ子にはほど遠い。娘と追いかけっこで成長したかったけれど、彼女の成長にはとても追いつけない。
けれども、僕を信頼してくれる仕事相手はできたし、都内のマンションの家賃を妻と折半できる程度には稼げるようになった。

正直、甘ったるい気持は未だにあって、“なんとかなるでしょ”の精神は生来のものだから未だ殺しきれない。でもまあその心持でも、娘が1歳になるまでは家族3人&猫1匹で生きてこられたのだった。

決断の良し悪しは、これからの僕の生き方が決める、今はそう書くしかないのだけれど、たしかに現在の僕は、「この世界線を選んで良かった」と心底から思っている。
この世界線で良かったと思い続けるために、家族とともに懸命に“青春”を生きていく。

  

 

東京の親戚

こないだ娘の1歳を記念して「一升餅」という催しをした。まだろくに立てない・歩けない1歳児に一升の餅を背負わせ、一定距離移動するのを見届けるお遊び。「一升」と「一生」をかけて餅を持たせ「一生食うに困らない」という願掛けをするのが趣旨らしい。大抵の子は生まれてはじめての重みに泣くという。

娘はまだ立てないので、四つんばいになっているところへ風呂敷に包まれた餅を背負わせた。正確にいうと、背負わせたのは僕ではなく、妻と友人だった。娘はもちろんおびただしく泣きながら、這い、進む。その様子を総勢12人で見た。妻と僕以外に10人もの人が、娘の泣き様を見に、集まってくれたのだった。

「娘のお誕生会やるからきてください」というのはなんだか気がひけるし、「プレゼントあげなきゃ」と気を遣わせてしまうが、「『一升餅』するので酒飲みがてらお暇なら来てください」というのは、エクスキューズとして大変よろしいと思っての催しだった(結局、素敵なプレゼントをいくつももらえてしまい、うれしかったです、どのプレゼントも娘喜んでてすごい)。

 

この日は、僕と妻の共通の友人を呼んだ。ほとんどの人が、娘に一度以上会ったことがある。集まってくれた人たち同士も大抵互いに面識がある(知り合ってなかった人たちもいたけど、最終的にすごく打ち解けてくれて、それもよかった)。

飲み屋に集まるかピクニックと称して外で飲むかしてきたメンツ。彼らが、広くはないわが家のリビングダイニングにやってきて、僕と妻をいれれば12人もの大人プラス1歳児が収まっている光景は圧巻だった。

全員を一望したのは初めてのことで、その瞬間僕は思わず感極まってしまった。この部屋にいる人間たちは僕が東京で自ら出会った“親戚”だった。血は繋がってないし、年齢も性別も出身も仕事も趣味もバラバラ。そんな人間たちが、集まっていることの奇跡に感じいった。

実際の親戚の集まりといえば「集まるべき“義務的”なもの」であって、たとえ親戚のなかに気にいってる人が1〜2人いたとしても「義務」の中で会うからどこか窮屈だった。特に盆と正月、父方の祖父の家を訪問するのはすごく辛いことだった。両親が家庭内別居に入って母が祖父の家に行かなくなってから、僕と妹はますますその祖父宅を嫌うようになった。父と祖父は決まって僕ら子供が興味のない格闘技をはじめとするスポーツの話題に耽り、気詰まりになると父が勝手にテレビのチャンネルを替えはじめ、なんとか2時間を経過させようと水面下で躍起になっているような居間が息苦しかった。父もいつも早く帰りたがってるように見えたので、子供心に「なんで嫌なのに来るんだろう」と思っていた。血が繋がってるってだけで、僕らはなぜ一緒にいなくちゃならないのだろうか、当時はこんな形で言葉にはできなかったけれど、あのときの窮屈でうっとおしく重苦しい1時間5000円は、一体なんのためだったのか今でも思う。1万円の小遣いを祖父から貰えたからトントンだった。ちなみに、僕は祖父のことが嫌いではなかった(と思う)、親戚付合いの義務が嫌いだったのだ。

しかし、東京でできた親戚たちはみな「義務だから来た」わけでなく「来たいから来てくれた」と信じられた。それは妻が築いた関係の為せるものだ。

妻と出会った頃、彼女が「東京の母」だなんて言われてるのを聞いたことあって「そんなにすごいのかあ?」と半ば疑っていたのだけれど、たしかにこれは“母”だろう。この日集まってくれた人たちは、それぞれの距離感でそれぞれが関係していてそれぞれ思うところもあるのだろうけど、関係のはじまりには彼女がいる、という意味では、母に違いない。関係を産んだのは彼女なのだから。インターネットを通じて、時にはオフラインで、妻が彼らと出会い、関係を紡ぎ、人と人とを自然に出会わせてきた結果だった。

僕は妻の築いたものの上に乗せてもらっている、僕が孤絶しないでいられて、しかも“東京の親戚”のなかにはひとりも嫌いな人がいないっていうこと、すべて妻のおかげ。ほんとうにラッキーだと思う。

僕はわがままで、人との距離感にうるさいのだけれど、妻の“親戚”たちはみな、ほどよいと思える。彼らとの距離感が僕は好きだ。人間関係の間合いが素敵だ。近すぎず遠すぎず、上下もない。みな基本的に人見知りだからかもしれない。

 

“東京の母”がほんとうの母になったこと、そしてその子供が1年無事生きたことを祝い、その命がこれからも続くことをゆるく祈りつつ、昼間にやった「一升餅」のイベントが終わった後も夜まで延々と飲み続け、各々の感じで楽しみながら全員等しく酔っぱらっていく様は痛快だった。主役の娘をお昼寝させようと薄暗い寝室で寝かしつけているとき、リビングから聞こえてくる彼らの楽しげな話し声に、じんときた。

 

来年も必ず娘の誕生日を祝う、そのときはまた彼らを呼びたいし、今回より多少呼びたくなる人も増えることもありえる。招待者数は増えても、参加人数は今年よりも減るかもしれない。でも、招待した彼らが来なくたって全然かまわないのだ、僕らは血で繋がった“親戚”ではないから、集まらなくちゃいけない義務なんてない。もし都合があえば、そして「暇だし行ってもいいかな」と思えたら、「久しぶりに会いたいな」と来てくれたら、嬉しい。でも、来なくたってかまわないよ、気遣わないでね、とも本気で思う。そういう風通しの良さでやっていきたいのだ、去るもの追わず来るもの拒まずはなかなか難しい、人は執着するし横着するものだから。でもそんな難しさに抗って、風通しよく軽やかに生きていきたい。

 

そんで娘が13歳くらいになって「今年は友達に祝ってもらうから、もう集まらなくていいよ!」なんて言われたら「了解〜、楽しんどいで〜」と送り出しつつ、僕ら夫婦は東京の親戚と飲酒したりする。そんな未来があったらそれはひとつの最高かもしれない。最高の道はたぶんいく通りもあるだろうから、誰も無理強いしたくない。みんな自由にやっていきたい、自由の先でたまに再会できればハッピーだ。

 

当日のイベントのために部屋を飾り付けてくれたのも、お酒やおつまみを準備してくれたのも妻であった。自由の先でたまに再会できる場所を整えるというのが実は大変なのだよね。それをめんどくさがると疎遠になっていく。そういうめんどくささも引き受けられるところを尊敬している、見習わなくちゃ。僕はといえば、前日妙に緊張してナーバスになり、ひとりでバカみたいに酒を飲み、当日起きたときは二日酔いでグロッキーだった。掃除機をかけながら気持悪くなりトイレで吐くほどだった、情けない。それほどに人付き合いに緊張してしまう僕が楽しいと思える会は滅多にない、ほんとうに嬉しかった。妻と娘のおかげだ。

“シラフで”クッソ生きてやる。

自分がどう見られるか気にしすぎた結果、自分は人から見られてない、という嘘へ逃避。誰も俺のことなんて見てないから……と心のなかで宣言すると少しだけ気持がラクになる。でも実際は見られてるんだよな。「誰もおまえのことなんか見てないよ」はダウト。誰かが必ず見てる。

 

俺の自意識過剰の行く末は堕落だった。人の目を気にすると、自分が透明になっていく。ほんとうは自分で自分を見つめなければならなかった。俺は俺をどう見るか、スタートはそこからだった。俺は他人に自分を預けすぎた。

 

日付変わって29歳になる。20代最後の1年の抱負は「シラフでクッソ生きてやる」に決めた。昨日Twitterで「キレートレモンサワー」を見かけたのと、今日あるCM撮影にエキストラ参加した結果、強くそう思った。

我々をあの手この手で飲みこもうとする最近のアルコール業界が呪わしくなってしまった。俺らを酔わせてどうするつもりだ!なんてことを酔っぱらった脳みそで思った。酔っぱらう時間はもちろん楽しいけど、日常をやり過ごすためのアルコールはもう要らない。ハレの日だけ飲みまくろう。ケはシラフで生き抜こう。アルコール無しでは生きにくい社会に怒ろう。

これからオリンピックと万博という祭りを通過するわけだけど、そんな日々を俺はシラフで生きたい。

 

CMの参加要項には「酒気帯びの参加はお断りいたします」とあった。この文言がなければ俺は確実に一杯ひっかけてから現場に赴いたと思う。酔ってれば容易に楽しい思い出をつくれたろう。でも、禁止されていたから俺はシラフの俺で行った。したたか緊張した。なんにも貢献できなかった気がした。生産性ゼロ以下が生身の俺だった。シラフの俺のギアの上げ方なんてとっくの昔に忘れてしまっていた。

思い出したくなった。

 

渋谷を歩いててもネットに接続してても、常に数多の人間の情感や意見、視線に晒されている。東京に生きると絶えず外部との摩擦に晒され疲弊していく。摩擦で焼けつく皮膚の痛みに耐えるべく冷たいアルコールを摂取してやり過ごす、そんなのもうやめだ。俺は大切な人とかけがえのない時間をより鮮やかにするような酒以外飲まない。シラフでもスイッチひとつ入れるだけでブチあげられる人間になりたい。アルコールで自意識をシャットアウトして本日閉店するのではなく、酔わずにシラフで自分を自分の視線で省みたい。自分という海に潜ったときはじめて出会える感情がきっとあるはずで、だから次の1年は積極的に生きていきたい。

 

 

 

連休

ゴールデンウィークの前半は、娘が保育園でもらってきた風邪のようなものに翻弄されていた。発熱はなかったけれど、鼻水が延々と出続け、咳が止まらず、ゴールデンウィーク3日目には目の周りに湿疹まで出てきた。こどもの日には娘が1歳になるのを記念してスタジオで家族写真を撮る予定だったので、大いに焦った。休日診療してくれていた小児科に連れていく。優しそうな50代くらいの女性の先生が診てくれた。「赤くなりやすい体質なのかもしれないですね」といわれ、塗り薬だけ処方された。2〜3日で治まると思います、と言うのでひとまず安心してみた。

しかし、子供の体調不良には敏感ですぐに病院に連れていくというのに、自分の受診はひどく疎かだ。蓄膿症、親知らず、虫歯、痔、ざっとこれだけの(小さい)病を抱えているけれど、それぞれの症状が著しく悪くなった時にしか病院に行かない。母親譲りの病院嫌いが、僕の体を少しずつ蝕んでいる気がする。母は病院がひどく嫌いで、「病気だって言われたら怖いから」という理由で何十年も健康診断を受けずにいた。脳出血で急逝する直前も、1ヶ月ほど風邪っぽい症状や嘔吐を繰り返していたのに、市販薬でごまかしつづけていた。そんな母だけど、僕が子供の頃は僕をまめに病院に連れていった。子供の不調はすぐに診せるが、自分の症状とはだましだまし付き合いつづける親は多いのかもしれない、親の不養生。僕の病院嫌いが娘に伝染しないように、病院嫌いを僕は克服しなければならない。

娘の湿疹は2〜3日でほんとうに治り、薬を飲ませつづけた甲斐あって鼻水や咳も治った。

 

ゴールデンウィーク2日目は渋谷伝承ホールに神田松之丞×神田愛山の「講談伝承 天保水滸伝 連続読み」を聞きにいった。はじめての講談だったけれど、なにも難しいところがなくすこぶるおもしろかった。なにも難しいところがない、と思わせるのがエンターテイナーなんだろうなあ。ちなみに前座の方の朗々とした語りは何の話をしているのか難しくてほとんどわからなかった。

神田松之丞の語る浪人で用心棒の平手造酒の飲みっぷりと茶目っ気、そして死に様がたまらない。飲兵衛の話にはどうしたって感情移入してしまう。そういえば勢い余って張扇が高座から落ちるハプニングがあったけれど、それもうろたえることなく笑いに変えていてさすがだった。ハプニング、トラブルを回収する手際の良さ、そういう臨機応変さを味わえるのが生の醍醐味だ。『天保水滸伝」といえばこの人らしい神田愛山さんも佇まいがかっこよかった。

大満足で渋谷伝承ホールを出たのだけれど、その後に行く予定だったセルリアンタワーのガーデンラウンジは人が多くて断念。渋谷をさまよい、結局渋谷ストリームでハンバーガーを食べた。「あなたがデートの段取りとかまったくできないの忘れてた」と妻が苦笑していて救われた。せっかく安くないお金を払って娘をベビーシッターに預けて半日デートだというのに、無計画だった自分が恥ずかしくなる。妻と付き合ってるころのデートといえば、妻が教えてくれるおいしい店以外だと安居酒屋ばっかりで、デートプランなんて立てたことがないのを思い出す。僕はほんとうになにも知らないまま結婚したのだ。この日も結局妻のひらめきで高円寺の沖縄料理屋・抱瓶に行くことにし、海ぶどうと島らっきょを泡盛で流し込めたので最終的に満足させてもらった。

 

平成最後の日は近所のそば屋で年越しそばやろうとしたが、店の前に行くとゴールデンウィーク休業の貼紙があったので諦め、近所のセブンイレブンで惣菜と酒を買いこみ、家でしこたま飲んだ。平成最後のアルコールは平成を象徴する名酒・ストロングゼロにした。平成に置いていきたい産物、もうなるべく飲みたくない。

令和に変わる直前はテレビの前にいたけれどなんとなくそわそわして、妻と「どうする?どうやって越す?」なんて言いあっていたが、結局寝室で寝ている娘のもとへと駆けつけ日付が変わった瞬間にぐずる娘と妻のツーショットを撮って即座に寝た。

 

令和最初に見た映画は『アベンジャーズ エンドゲーム』。怒涛のラストは泣きに泣いた。ネタバレ解禁してるらしいのでこのブロックではつらつらと結末について書き連ねるけれど、トニー・スタークの葬式は心底悲しかった。MCUにおけるひとりの人間の死があんなにも悲しいものになるなんて想像できなかった。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のヨンドゥの弔いはカラフルで祝祭的でもあってひたすらにエモく僕は微笑みながら泣き濡れたものだったけれど、トニー・スタークの葬儀はモノクロで沈鬱で見てられなかった。娘を持つ父親としていたたまれない。エンドロールを見ながら、僕は一刻も早く家に帰りたくなっていた。アイアンマンが守ってくれたこの世界で、僕は僕の家族を大切にするぞ、と半ば本気で思っていた。後日『エンドゲーム 』を見た妻も「映画館を出て歌舞伎町歩きながら『大騒ぎして迷惑な人たちもアイアンマンが救ったんだ』と思うと優しい気持ちで見れた」と言っていたので、やっぱりMCUは現実だ。マーベルは11年かけて、世界観を提示したのではなく世界を構築した。だからこそ、スタークの死は今なお僕の心を締めつける。

 

5月2日は「ビバラポップ 2019」に行く。去年から始まった、大森靖子ピエール中野がプレゼンターを務めるアイドルフェス。ビバラロックの会場を利用して開催される。ふだんはまったくアイドルのライブには足を運ばないのだけれど、このフェスは大森靖子の作品のひとつだと思っているから、ためらいなく参加した。去年よりも規模が縮小して、ビバラロックのメインステージではなく、地下のcave stageというところで1600人限定で行われたビバラポップはなんだか密教的な祝祭空間であった、『マトリックス』のザイオンようでもあり、『ファイトクラブ』の地下拳闘場のようでもあった(例えが絶妙に古い)。ZOCの人気ぶりに圧倒されつつ、初めてライブで聴く「family name」のハマり具合に涙した。大森さんは「こんな良曲ソロによこせよっていう大森靖子スタッフの視線を受け流しながら(冗談です)それでもZOCが歌うからこそ意味があるのが、誰にも伝わる曲です」とブログに書いていたけれど、たしかに「family name」はZOCがいたから、ZOCへ捧げたから生まれた曲だと、このライブで確信した。まだ結成半年だからパフォーマンスは荒々しいけど、それもまた初期衝動的で素直に心打たれてしまう。

薄々感づいてはいたけれど、この日のライブを見て、自分がにっちやん推しなのを悟った。生うどんの頃より大人びた彼女の、飄々とした笑顔と振舞い、安定感あるパフォーマンス、そしてツインテールにやられました。妻に「俺、にっちやん推しになった」と報告すると「にっちやん推しはガチっぽい」と言われたんだけど、ガチで推してるから推し宣言したわけなので、トートロジーだと思った。

あとビバラポップは1年ぶりのブクガは相変わらず気持ちよかったのと(やっぱりワンマンにひとまず行ってみたい)、Juice=Juiceの圧倒的クオリティに脱帽した。ハロプロへの入口がよくわからないので、ビバラポップは重宝している。去年こぶしファクトリーに出会えたのも嬉しかった。来年はどのグループが来るだろう。

そして至近距離で目撃した道重さゆみの肢体と汗に畏敬の念を抱きました。先日行った「サユミンランドール 東京」では完成されたコンセプトとしての道重さゆみを体感した満足感に支配されたのだけれど、今回は人間・道重さゆみの生身が放つ眩さに撃ち抜かれた、リアルはすごい。大森さんとの「絶対彼女」コラボは微笑ましかった。

大森靖子コラボステージはなんといっても道重さゆみを招いての「VOID」に尽きる。ギターストロークが鳴った瞬間泣いてしまった。初恋の人・峯田和伸に歌ってほしい曲を、敬愛する推しといっしょに歌う……。初恋と敬愛を観客の前でブレンドして突きつけてくる大森靖子の強欲とそれを実現する腕力にひれ伏した。そして我々大森靖子ファンの身悶えを吹き飛ばす湿度0%・太陽燦々な道重さゆみの「家を抜け出して僕の部屋においでー!」という誘いには思わず笑ってしまった、こういう救い方ができるアイドルが道重さゆみなんだな、と知る。大団円ラスト、出演者ほぼ総出の「ミッドナイト清純異性交遊」で香椎かてぃさんが所在なさげに突っ立てたのに感動して今年のビバラポップは終わった。

 

我々のゴールデンウィークは、4日の新宿御苑ピクニック、5日の家族写真撮影でクライマックス、6日の文フリに家族で行ったところでエンディングを迎えた。

新宿御苑のピクニックには僕の家族と友人カップルで行ったのだけれど、弁当を食べながらひたすらにわが娘をかわいがってもらい、温室で熱帯植物を眺めたあとは、新宿駅近くのキリンシティでビールを飲んでふたたび僕らの娘を愛でる時間を過ごした。友人の撮る娘の写真がたまらなくかわいくて嬉しかった。帰宅後友人から71枚も娘の画像が送られてきて、夫婦揃ってご満悦だった。それにしても、ほんとうはアベンジャーズの話とかで盛り上がりたかったのに、子供のかわいさにかまけて全然会話にならなかった……というのは4分の1くらい嘘で、おそらく我々夫婦が人見知りを発揮し、ほとんど会話がままならなかったのだった。もしかしたら友人たちも人見知りなのかもしれない。かといって、あの4人の居心地は悪くない。これでいいなあ、と思える清々しさがある。逗子に住んでるころ、彼らが頻繁に会いに来てくれた時期があって、あのころは僕も緊張することもなく話せた。我々は人見知りというよりも、他者とチューニングを合わせるのにえらく時間がかかる人間なのだろう。ふと思い出したが、大学のキャンパスで教室を移動する際に知り合いとすれ違うときお互いの目が合ってもうまく挨拶できたことがほとんどなかった。すれ違いざまに気さくに声を掛け合うことのできる人間がうらやましい、高性能の対人間チューナーを持つ者たち。

 

翌日は下北沢で家族写真を撮ってもらう。みんな白いTシャツで揃えていく。小田急線が遅延していて駅に着いたころには予定時刻直前で、夫婦そろって汗だくになりながらスタジオに向かった。僕らは「写真撮影前に身支度を整える」という観念に乏しく、汗で額に前髪が張り付いた状態でカメラの前に立った。しばらく経って写真家の方が「暑いですか?エアコン入れます?」と聞いてくれたがなぜか謙遜して「大丈夫です、すぐ汗ひきますから…」などと言ってしまった。結論からいうと、写真のできあがりにはまったく支障なかった。しかし、夫婦そろって撮られることに慣れていないのがおかしかった。

娘は人見知りすることもなくカメラの前でいつも通り愉快そうに笑ってくれた。妻も笑顔が上手なので様になっていた。僕だけが「お父さん!ちょっと顔硬い(笑)」と何度も言われた。笑顔が苦手だ。僕の笑顔はいつだって歪んでいる。心の歪みが正しく反映されている、そんな気がする。さわやかな笑顔を作ろうとすると、頰がひきつる。

とはいえ、プロの撮影はやっぱりすごくて、撮影後半には家族でカメラの前に立つことへのプレッシャーがほとんどなくなり、自然に振舞えた。もらった写真データを見ると、後半にいくにつれて、僕の顔は柔らかくなっていた。

毎年撮ることに決めたので、来年はもっと上手にすばやく笑えるよう、心の歪みを矯正しておきたい。あと体絞りたい。来年の僕らはどんな家族になっているか楽しみだ。

最近の娘は何もできない赤子を脱し、できることが増え幼児に近づいてきた。高速ハイハイを覚え、本棚に差さる書籍をことごとく抜き去り、目に映るすべてを口に含み、ソファにつかまり立ちしてフローリングに転げ落ちたりする。感情表現の手段も増えた。泣くだけでなく、癇癪を起こすようにもなったし、それ以上によく笑うようにもなった。娘が成長するにつれて個としての彼女がはっきりしてくるからか、自分の娘へ向ける愛情が深まっている。半年くらい前は娘のことこんなに好きになるとは思わなかった。

 

6日は文学フリマに行った。妻がはじめての文フリに興奮していてかわいらしかった。出店している人の中に知り合いも何人かいるようで、彼女の顔の広さに感心した。

いままで行きたかったけどなんとなく敷居の高さ(と距離の遠さ)にたじろいで行けなかったとうい妻。そんな行きたいけれど縁遠い場所に行けて、しかも買物を満喫できたのが嬉しかったらしく、夜はテンションが上がっているようだった。

 

妻も文章を書く人なんだけど、ついこないだ「私のこの文章どう?」と聞かれたので素直に感想を述べた。

うまく説明しづらいことをシンプルに説明できててすごい。この説明能力がうらやましい。エモさに頼ってないところが好ましい、などいうと、激しく喜んでいた。

書くことで人生の重大事にけりを付けたり、人を励ましたりできる彼女を僕も少しは見習わなくちゃいけないと思ってる。

 

終局

父と妹にしばらくLINEの返信をしていない。父の場合はちょっと催促的なニュアンスを含んだLINEだから既読無視してる節があるし、妹にもなぜだか若干の後ろめたさがあって彼らとのトークルームから遠のいている、というのはあるけれど、なぜ返信しないのかといえば、けっきょくは俺が彼らに甘えているからだと思う。返信しなくても、関係が切れることはないだろうと、どこかで思い込んでいる。そんなことはないのに。

 

 

話がいきなり全然変わってしまうようだけど、インターネットを介した言葉の交通がめんどくさい。言葉が流れていくのを見るのもしんどい。人びとの関係性をネット上で見て嫉妬する自分も惨めだ。自分には関係のない炎上を追いかけてしまうのもみっともない、考えているフリをしてたけど、けっきょく野次馬でしかなかっただろう、俺は。

 

ネットでの炎上に対するさまざまな人たちの言葉やスタンスを見て辟易とする。自分は同じ有象無象に加わりたくねえなと思ってTwitterではなるべく触れないようにしていたけど、どうしても納得のいかないことがあって、妻にグチったら「久しぶりに話せると思ったのにそんな話題か…」と妻に言わせてしまった。ここ2日、俺は家を空ける時間が長かったし、妻は体調が優れなかったので、家で話す時間がほとんどなかったのだった。それなのに、ネットで見た自分とは無関係の話題に心を荒らされて、その苛立ちの妻に吐き出す。最低だ、甘えすぎ。

俺はコミュニケーションに向いてない、つまりインターネットにも向いてない。

 

人間関係が人よりずっと少ない俺だけど、こんな俺ですら疲弊しきっていて、だったらもっと多くの人と交わらなくてはならない人はどれだけ辛いのだろう。数をこなしてれば慣れるものなんだろうか。

 

アベンジャーズ エンドゲーム』を見た帰りは、一刻も早く家に帰りたくなった。俺が今なにを大切にしたいのか教えてくれる映画だった。