ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

ちゃんと

USBメモリーを無くしてしまったので、作業ができず途方にくれている。このまま見つからなければ、再度データをもらわなくてはならない。クソだ。締切まで時間も少ないというのに。

 

昔からよくモノを無くす。この悪癖まったく直らない、直さない。そろそろ直さないと本当にとんでもないことになる。

無くしてもいいようにする、というのも手かもしれない。今回の場合、一度USBメモリーを挿入した時にデータをパソコン側にもコピーしておけば、こんなことにはならなかった。あの一手間を惜しんだから今とても困っている。「コピーしておこうかなあ」と迷ったのにやらなかった。馬鹿だ。

 

今、人生でいちばん忙しい。というか、同時並行でやらなくてはならないことが複数個ある。それは一般的には忙しいとは言わないのかもしれない、たいていの人にとっては常態だろう。俺が今テンパっているのは、いくつもの行為を同時にこなした経験が乏しいせいだと思う。仕事をしたことがないせいだ。

優先順位を付けなくてはいけない。スケジュール管理を覚えなくてはならない。

 

やがて俺は転居する。引っ越す、という言葉はなんだか縁起が良くない気がするので使わないようにしたい(口語では使っちゃうけど)。「引いて越える」ってなんだか都落ち感がある。まあ確かに都内から出るので「都落ち」と思われるかもしれない。でも俺たちにとってこれはスタートだ。とても気持ちの良い町で、人生を仕切り直す。《さらぴんの生活》(©︎鳥飼茜『おんなのいえ』)を始める。東京に住んで7年かかったしやっと始まったとこなんだ。

そのために今持ってる余計な荷物は捨てたい。余計な荷物を捨てちまえば、USBメモリーも見つかるかもしれない。大切なものがゴミに埋もれてしまってはいけない。ゴミにまみれていると、もしかしたら大切なものが埋まっているかもしれないと思い込んで、いつまでもゴミ漁りにかまけてしまうのも問題だ。大切なものはもうこの部屋にはないかもしれないのにね。

 

ちゃんとしなくては。

「ちゃんと」ってなんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

きょうのこと

六本木の大きなビルの一室で打ち合わせ。ロボットみたいな受付のお姉さんが部屋まで案内してくれた。お姉さん、と言ったけど、俺より年下なんだろうな。受付のお姉さんも、甲子園球児も、俺よりずっと大人に見える。お姉さんは視線は確かに俺の目に合っていたけど焦点が合っていなかったのでロボットに見えた。

打ち合わせ、11:00〜12:00と言われてて俺はてっきり「11時から12時までの間に来てください」ってことだと思ってたがしかし、家でシャワーを浴びながらひょっとして「11時から12時まで話しましょう」ってことだったのでは……と思い至り急いで家を出たけど間に合わなかった。案の定、オフィスの応接室を11時から12時まで押さえてくださってた、ので、大変な迷惑をかけてしまった。

 

打ち合わせを終えたらまっすぐ家に帰った。ケンタッキーで4ピースセットとコールスローとビスケットを買って帰り、『マスター・オブ・ゼロ』シーズン2の7話、8話を見ながらふたりで食べた。今のところシーズン2だとイタリア編と「ニューヨーク、アイラブユー」が好き。俺はニューヨークに一度も住まないまま人生を終えてしまっていいのか、とか最近思う。『マスター・オブ・ゼロ』と『A子さんの恋人』のせいです。でも、上京とは違って、ニューヨークはほんとうの目的がないと行っちゃいけないような気がしている。そういえばずうっと前にツイッターで昔から相互フォローしてる方が「ブログおもしろいね、ニューヨークに行ってみてよ」となぜだか言ってくれたことがある。なぜだったんだろう。

あ、あと、フランチェスカと良い雰囲気だったのにあと一歩踏み出せずタクシーで帰るデフの表情長回しもたまらんかった。

 

食休みしたあと、銭湯に行く。ここ最近銭湯に行ってなかったから鼻炎が悪化してるっぽくて、寝起きが悪かった。ここに来て「ひよっこ」を2連続見逃してる。俺が大学にまともに通えなかったのは、鼻炎、蓄のう症のせいだったんだと最近気づいた。あの倦怠感は尋常じゃない、まともには生きられない。銭湯は最高の加湿器、入る加湿器。最近の子供がアレルギー性鼻炎になりやすいのって、湯船に浸かったりする機会をシャワーとかに奪われているからではないか?テキトーなことを言っています。

銭湯は昼過ぎだったので老人が多かった。体を洗って疲れたのか、風呂椅子に座ったまま寝ている老人を3人見た。

 

銭湯から戻って支度をして再び六本木に舞い戻り、EXシアターでペトロールズ×ceroを見る。ペトロールズはそんなに知らなくて初めてライブ行ったんだけど、3人の歌声のハーモニーがことの外良かった。もっと長岡さんのワンマンなバンドだとばかり思い込んでいた。ハイハットの音が気持ちよかった。

cero、2015年末にイベントCLUB SNOOZERくるりとの対バン(だっけ?)以来だったんだけど、最高だった。あの頃よりずっとパワフルでエモーショナルでアンサンブルだった、まああの頃だって個人的にはくるりより断然好きだった。

マイ・ロスト・シティー」から始まったんだけど、あの曲の入ったアルバム、大学生の時ひとりで聴きまくってたのでひたすらにエモくなった。カラオケで歌うと必ず失敗するんだよなー。人前で歌ったことは多分ない。『Obscure Ride』も大学卒業後ひとりになってからずうっと部屋で聴いてた。小沢健二岡村靖幸パスピエ前野健太cero、そして大森靖子はひとりで聴いてたので思い入れが強い。洗濯物を干してた記憶が蘇る。洗濯干しながらこの6組のアーティストのどれかを必ず流してたんです。

cero見ながら、これが聞けるんなら今の日本に生きてて良かったわ、と思えた。冗談じゃなく。ニューヨークに、いなくても、いいや。ニューヨークに行ってやりたいことなんてひとつもないし。ニューヨークには銭湯もないだろうし。

『パターソン』感想文

f:id:massarassa:20170917122424j:plain

SHADES BAR、この店構えだけで完全勝利だった。ジム・ジャームッシュ『パターソン』はタイトル通りパターソンという名を持つ町と男が主役。

ニュージャージー州はパターソン、秋の町を路線バスが走る。運転手の名もパターソン(アダム・ドライバー)。「おかしな名前ね」と言われ、人生何百回目かの苦笑を浮かべる。生まれた町の名前を両親に付けられたのだろうか。

男は毎日バスを走らせながら、休憩時間などにはノートブックに詩を書き連ねる。彼はバスの運転手であり、詩人でもある。スマートフォンはもちろん、ケータイもパソコンも持たない彼はペンを走らせる。「縛られるような気がするから……」と言ってスマートフォンを持たないパターソンはしかし、パターソンの町中をバスでぐるぐる回っている。パターソンは、パターソンの町に縛られてる、と言ってはあまりに悲観的すぎるか?この映画にそういった悲愴は表立って描かれていない。

 

毎朝6時15分前後に自然と目を覚まし、隣で眠る妻にキスをして、ひとりベッドから立ち上がり、ダイニングで不味そうなシリアルを食べて出勤する。毎日毎日。
乗客の会話に耳を傾けながらバスを走らせる。昼食を取ったり詩作に耽ったり場所は、グレートフォールズを正面に望むベンチだ。このグレートフォールズ、産業革命の象徴らしい。落差23メートルの滝の威力が当時の産業を推進した。映画では多分そのことは特段語られてなかった。雄大な滝を前にして綴られる詩は、気に入ってるマッチのことや妻・ローラのことだったりする。
仕事が引けたらまっすぐ家に帰る。妻の作った飯を食う。エキセントリックでエキゾチックな彼女の作ったチーズと芽キャベツのパイ包みがまずいけど、パターソンは水で流し込んで食べてやる。不満は言わない。妻を悲しませることに勝る罪悪はこの世にないかのように彼は振る舞う。妻がギターが欲しいと言ったら本当は家計がきついのに「いいよ」と言ってしまう。ローラはカントリー歌手になってデビューできるかも、ナッシュビルに行けるかも、とか言ってる。自分にはもしかしたらとんでもない音楽の才能があるかも、とか言っちゃう。ローラはちょっと飛んじゃってる。パターソンが仕事に出ている間、彼女は部屋の白地の壁やカーテンに黒いペンキで円を描いている。ローラは白黒映画が好きだという。ダイニングにいるパターソンの背後には青や黄色に塗られた壁がある。パターソンがバスを走らせ、マーヴィンを連れて(連れられて?)歩く町にも季節の色彩は町の色彩は生きている。パターソンはローラの描く白黒の世界の円環から逃れたいのか?別にそんな切迫感もここでは特段描かれてはいない。


夕食の後、パターソンは飼い犬・マーヴィンを散歩させる。で、冒頭に掲げた“SHADES BAR”に入って一杯ひっかけて帰る。ローラは散歩から帰ってきたパターソンから漂うほのかなビールの匂いを気に入っている。
こんなルーティンを毎日繰り返している。いつからだか分からない。来る日も来る日もバスを走らせ、風変わりな妻と過ごし、ビールを飲んで寝る。

パターソンは「淡々とした日常」を描いているわりに不穏な劇伴が流れる。アダム・ドライバー演じるパターソンの心はあんな感じなんだろうか。言葉になる前の、わだかまりがなんとなくある。それを詩に表したいのだろうか。愛する妻の作るまずいパイを飲みこむ優しい彼が持つ詩情は実はあのグレートフォールズのようにたぎっているんだろうに、彼はそれをまだ形にできていない。
ローラは彼の詩を褒めるけれど、自分の詩に何かが足りないと彼自身がいちばん良くわかっている。偶然出会った少女の詩に心打たれ、その詩を覚えてしまう。自分にはない何かを感知している。彼は詩を愛するがゆえに、自分の詩が大した代物ではないことも知っている。
でも、パターソンは詩を読むのと同じくらい詩を書くことが好きだ。だから、彼は誰に読ませるためでもなく、詩で名を馳せようとするのでもなく、淡々と、言葉で白紙を埋めていく。詩を訥々と読み上げるアダム・ドライバーの声がたまらなく素敵。いかなる抑揚も排除して、綴られた文字をしっかり口に出すことだけに腐心している。この凡庸さが美しい。

 

クライマックスはパターソンのノートブックに刻まれた詩たちが永遠に失われてしまうところだ。失われた事実を前にパターソンはかなり動揺する。歌ってあげようか?というローラの斜め上な慰め方は観客にとっては笑えるけど、今回ばかりはそのチャーミングさもパターソンを慰めない。その後どうなるかってのは映画を見てほしい。

 

『パターソン』の魅力をどう言ったら良いのかわからなくて長々とあらすじを書いてしまった。この映画に出てくるあらゆる詩の価値とか良さってのは俺にはよく分からない。覚えてる一編とかもない。でも冒頭の“SHADES BAR”の店構えや店主ドクの佇まい、パターソンとローラの寝室、アップで捉えられたアダム・ドライバーの愛おしいはにかみ、交差点を曲がるバス、帰宅たびに傾ぐポスト、毎日現れる様々な双子、グレートフォールズの雄大……そういう光景の断片たちが脳裏に刻まれていることを思い出すと、心が満ち足りる。

 

この映画は「淡々とした日常の美しさ」みたいなのとはちょっと違うと思う。「淡々とした日常」に倦み、時にいらだつ我々も、詩的なまなざしを持つことでこれくらいの日常の鮮やかさを取り戻せるかもしれないという希望と、希望を守るためのささやかな苦闘がここにはあるように思えた。この映画の底流では常に日常の取り戻さんとする意志がたぎっていて、それがパターソンという町や男に深みを与えているのかもしれない。

 

失われてしまった町の活気。パターソンという町には多くのシリア移民がいるらしい (http://www.sankei.com/world/news/170527/wor1705270065-n1.html)。とあるサイトでこの町は全米で危険な町ベスト25にランクインしているのを見かけた。ニューヨークからそう遠くはないこの町も、かつては賑わっていたのだろう。あのグレートフォールズの力を借りて、人々は未来に邁進していたのだろう。しかし、あらゆるものは押し流されていく。諸行無常。だから人は書くし、読む。忘れないために書き、思い出すために読む。書き、読むためには、まなざしが必要だ。そのまなざしを『パターソン』は与えてくれる。

 

 

愛について(あなたの言い分しか信じません)

愛するとは信じること。愛してるから信じるんじゃない。「愛してる」は「信じてる」です。「信じてる」が「愛してる」とは限らないだろうけど。

 

愛する人が誰かに傷つけられたことを知れば、愛する人の言い分を100%信じる、信じてしまう。寄り添いたいと思う。支えてやりたいと思う。
その後の寄り添い方・支え方は人それぞれで、そこで過ちを犯すことはあるかもしれない。でも一度過ったくらいで、生まれた愛は消えない。なかったことにされてはいけない。

 

愛してる人のことを信じてるだけなのに「せめて両者の言い分も聞いてから判断しろよ」みたいなこと言ってるヤツがいるとバカ野郎!とののしりたくなる。極論、どっちが正しいかとか関係ない。愛してるものを信じてしまってるだけだ。

ただ、愛してる・信じてるからって何をしてもいいわけではない、でもそれは別の話。

 

我々は愛する人がいたり愛するものがあったりするから革命闘争をします。革命は権利を獲得するため、アイデンティティーを勝ち取るためにある。
革命と戦争は違う。戦争は奪うが、革命は生む。奪わないと得られないようなものにはあまり価値がない。
日常において戦争状態に置かれている俺たちは、エンターテイメントの中に革命を見る。革命途中に戦争を仕掛けてくるやつはクソだ。

 

みなそれぞれの信じ方で、闘っている。価値観がぶつかり、殴り合いになってしまうことはあるだろう。でも他人の信仰や愛を否定した場合は糾弾されてしかるべきだ。信じたり愛すること自体は自由だから。それは心の中のできごとだから否定してはいけない。

愛し方や信じ方があなたを傷つけたならもちろん怒っていいけど。


人の愛や信仰を揶揄したいのなら内輪のサークルでやればいい、絶対にバレない陰口で溜飲を下げてりゃいいだけの話だ。公の場で人の愛を否定してはいけない。

 

 

愛してもらえたから、信じてもらえたから、とことん報いる。過剰なまでに。それは傍目には異様に映るかもしれない。

しかし愛は直視しないと捉えられないのだ。愛のまなざしは第三者には分からないのだ。

愛は常に1対1だから、他の人間にはその愛の意味は分からない。

 

正直、俺は上に書いたような理念をこれっぽっちも体現できていない。でも現時点では、これが俺の理想だ。理想を信じ続けることができたら、少しずつでも成長できる。
「俺は成長できる」と自分を信じられるようになったから、いま俺が生きている。

 

 

銭湯に行くようになった④

四角く切り取られた夜空を見上げる。細かい雨滴がちちちと顔に落ちてくる。湯に浸かっているので体に雨は当たらない。

顔に細かい水滴が落ちている、というよりも、顔がパチパチとかすかに弾けているような気がしてくる。頰が、唇が、額が、眼球が、鼻が、その入口が。目を閉じるとまぶたも弾けた。自分がサイダーになったかのよう。湯と夜気と雨で気が抜けていく。体を伸ばし、ひとり小さな露天風呂に漂った。

 

自分の暮らす部屋からものの1分で着くこの銭湯。もっと前からここに浸かっていたら、何か変わっただろうか。変わらなかっただろう。というか、そもそも僕はずっとこの銭湯にひとりで来られなかったのだ。連れていってくれる恋人ができなかったら、俺はいつまでもこの銭湯に足を踏み入れることは叶わなかったのだ。もっと前から〜なんて問いはありえない。俺は何年もずっと腐りかけのベッドに横たわり溺れていた。

行きたくても、ひとりでは行けなかった。好奇心よりも臆病や怠惰がまさった。

 

恋人はよく「東京に何年も暮らしているのに本当に何もしてないんだね」と言って、僕を憐れむ。ごもっともだ。

僕は東京に暮らしているという自覚をずっと持たなかった。仕送りをもらい、勉強をするわけでもなく、何か興味のあることもなく、働くわけでもなく、本当に毎日をくしゃくしゃに丸めて捨てていた。くしゃくしゃのちり紙の中には一瞬の夢すら入っていなかった。後には何も残らなかった。

たとえこの先僕が何かを達成したとしても、「あの日々があったから、今の僕がいる」なんて決して言えない。本当に何もなかったのだから。

 

僕はまだあの頃の自身の無為を冷静に分析することができない。6年という無為に対して1年の匍匐前進はまだ心もとない。全然距離が取れてない。ひとりになると、ふとあの頃の寂しさが蘇ってきて懐かしいようなこわいような気分になってくる。

 

目を開けると視界の端で非常口を知らせる緑の誘導灯が相変わらず光っていた。この扉の向こうに出れば僕の部屋がほぼ真正面に見えるはずだ。誰もいないし開けたいところだが、あいにく扉にはセコムだかアルソックだかの警報機が取り付けられている。赤いランプが扉のそばで待機している。扉を開ければ赤いランプが点灯してぐるんぐるん回り出すだろう。緑地に白のピクトグラム、赤いランプ、顔のしゅわしゅわ、思わずクリームソーダを思い浮かべる。

扉の向こうには、銭湯を知らなかった、クリームソーダも知らなかった、ベッドに横たわるあの頃の僕がいるかもしれない。

 

湯を出て、体をきちんと洗い、拭き、外に出る。恋人からLINEが入っていた。「仕事終わった。ちょっと飲み会に顔出してから帰る」とのメッセージが46分前に来ていた。「銭湯してた」と返したら「ずるい」と来た。

 

ごめん。僕はまだ銭湯に行くようになって1年も経っていないから、このずるだけは許してくれ。

 

『エル ELLE』(ポール・ヴァーホーヴェン)感想文

猫のクローズアップで始まったかと思えばさっそくイザベル・ユペールがレイプされて幕を開ける『エル ELLE』。

 



最近見た衝撃的なレイプシーンはNetflix製作『13の理由』で主人公ハンナ(キャサリン・ラングフォード)がジャグジーで犯されてしまうものだった。瞳から光を失っていくハンナの痛ましさが目に焼き付いて離れない。

ハンナはこのレイプをきっかけに命を絶つことを決意するが、『エル ELLE』のイザベル・ユペールはレイプされた後も淡々と生きる。「淡々と」とはいっても本人は普段の生活の中でフラッシュバックに苛まれる。もちろん深く傷ついている。でも傷ついて立ち止まることはしない。彼女は淡々と犯人探しを進め(犯人は目出し帽を被っていたから誰だか分からない)、仕事やプライベートの問題も粛々とこなしていく。

この映画はとんでもエピソードがてんこ盛りで、例えばイザベル・ユペール演じるミシェルの父親は何十人も隣人を殺した殺人鬼として終身刑に服しているし、母は整形依存で若い男に良いようにたぶらかされている。息子は30歳にもなってアルバイト暮らし、その妻は他所でこしらえた子供を彼との子供だと言い張って金持ちのミシェルから家賃などいろいろせびる。ミシェル自身も会社を共に支えるパートナーであるアンナのダンナと不倫しているし、元夫の恋人に嫉妬して料理につまようじを入れていやがらせしたりする一癖も二癖もある女だ。こわい。


しかしこんなにも話題がてんこ盛りなのに、映画の語りは実にスムーズ。定型的な復讐譚でもなければ、フランス映画っぽい男女のすったもんだでもなく、アンドレイ・ズビャギンツェフ『エレナの惑い』みたいに親族に集られるセレブの悲哀みたいなものでもない。なのにすんなり見れてしまうのは、全編にわたってコメディー的な視線が注がれているからだろう。

パーティー会場で隣人の男といちゃついているミシェルに視線を向ける男たち、明らかに肌の色が違うのに自分の子供だと思い込んでるらしいミシェルの息子、彼らは徹底的に滑稽な存在として描かれていて、エピソードのひとつひとつはえらい深刻なのに苦笑しながら見続けられる。

しかし、この苦笑しながら見ていられるというのは、映画のストーリーを観客に見せつける上では効果的かもしれないけど、レイプからスタートする映画としてはあんまりよろしくないような気がした。

アンナを性欲のはけ口のように利用する不倫男も、甲斐性なしのバカ息子も、頭部から流血して「なぜ?」と問うレイプ犯もことごとく「男ってほんとバカだなあ……」と苦笑させるような軽い存在でしかない。ここにはことさらにかっこよく描かれたイザベル・ユペールと、彼女の周りで滑稽に踊る男たちばかりがいる。
毒親”問題は両親の強制退場によって宙ぶらりんだし、ユペールさんは徹頭徹尾かっこいい。

 

しかし、なんだか、こういう風にかっこいい存在として描かれる女性みたいなのはもう古くないかと思ってしまった。わけの分からない、ミステリアスで神聖視される女性というのは結局のところ男性視線に晒された“彼女”でしかないと思う。

 

男にとっての女が得体のしれないものでありミステリアスであるがゆえに神聖視されるような存在であるのと同様に、女にとっての男もわけの分からない存在なんではないか?

 

しかし実はミシェルの父親こそがそういう得体のしれない、わけの分からない存在になりえたので、そこをもう少し描いたらグッと深みが増したように思うんだよなあ。

 

自分自身は『まなざされる存在』なのだということを、どんな女の子でも、一度は考えたことがあるのではないでしょうか。古来の村で踊りながら、選ばれようとした記憶が蘇る。それは現象として、渇望として。だからこそ、このたった今が、いちばん面白い時代だと思います。すべての女性がカメラを手にしている時代、これは人類史上初めて経験するフェーズといえるから。21世紀に初めて、全ての女の子が、手鏡をスマートフォンに持ち替えた。『まなざす』ことの希望もまた、産声を上げていると感じています。まるで女の子の肉体が、新しく生まれ変わるように

 

ミシェルはエロゲ制作会社の社長じゃなくて映画監督とかプロデューサーだった方がしっくりきたんじゃないか。

I love you

「I love you あとはつまらないことさ」(大森靖子「I love you」より)というふうにはいかないですね。

もちろん、I love youは人生の根底にある。いま側にいる恋人は俺の生活の基盤であって、彼女がいなかったら、他のことはぜんぶつまらなくなる。でもだからといって、他のことがすべてつまらないことにはならない。

 

俺は自分をもっとちゃんとしたら、もっともっと恋人を愛せるんだよ。