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ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

島本理生「リトル・バイ・リトル」感想文

著者20歳のときの小説。

 

橘家は母とふたりの異父姉妹、8歳のユウちゃんと浪人中のふみ(「私」)の3人暮らしだ。もっといえばペットのモルモットがいて3人+1匹の生活だったが、こいつは途中で死んでしまう。

ふみの通う書道教室の柳先生の妻も死んでしまう。彼女はバスに乗ってる間に事切れて、誰にも気づかれないまましばらくのあいだバスに揺られた。

 

死があっても、それを受け止める人々はわりに淡々としている。死んだモルモットを庭に埋めたあと、幼いユウちゃんは「バイバイ」と言って手を振るがこのあとは特に気にするでもないし、妻に死なれて間もない柳先生もきちんと自分でご飯を作って食べ、すぐに教室を再開する。遺された者は死をただ受け止めるしかない。いつまでも泣いてたってしょうがない。遺された者たちは日常に戻らなくてはならないし、戻っていくものだ。

 

一方で、ふみは自分に暴力をふるった父のことが忘れられない。酒に溺れ、家族に暴力をふるい、家族の元から去った父ともしばらくは毎年の誕生日に会っていたけれど、6年前のその日、父はいつもの待ち合わせ場所に来なかった。そのわけを6年経ってようやく母が話したのは、ふみが周と出会い恋に落ちたからだ。

母の働く治療院で出会ったふたり。ボクシングをしているという周にふみは試合に行ってもいいか? と思わず尋ねる。

 

周がボクシングを始めたのは中学の卒業式にケンカで負けたからだ。彼の姉からそんな昔話を聞かされたふみは納得する。なぜか。

 

ふみが父から振るわれた暴力を知った周は憤った。ふみに「私のことは殴れる?」と聞かれた周は「頼まれても、それだけはしません」と言う。

「俺、ケンカはあんまりしないから分からないけど、練習中に気持ちが妙な盛り上がり方をするときはありますよ。たぶん、男って多かれ少なかれ、そういう衝動はみんな持ってるんじゃないかな」と言いながらもふみのことは絶対に殴らないと誓った周を、彼女は信じた。周は暴力的だからボクシングにのめり込んだのではない、彼は中学生最後の日に自分を打ち負かした暴力と、自身の内側から湧き上がる暴力への衝動を克服するためにボクシングに励んだ。

 

そういう男に惚れたふみを見たから、母は6年前に彼女の父が姿を見せなかったワケを話したのだろう。

未だに父に期待していたふみに、ろくでなしの父のことを洗いざらい話してしまっても、絶望しないと踏んだ。ふみの父はたしかにどこかで生きているのだろうが、ふみの求める「父」はとっくに死んでいたのだ。周と出会ったふみはその事実を受け止められる、そう信じたから母は娘に真実を話した。

 

「あの人はダメだよ。分かってるでしょう。ふみちゃんが期待するような人間性は、もうあの人の中で壊死してるも同然なんだよ。それにたった一度だって正当な理由もなく家族に手をあげるなんて、すること自体がおかしいんだよ。あの人のそばにいたら、たぶん私たちは死ぬまでそういう生活だったよ」

2本目のタバコを吸いながら、母はそう言った。

 

「リトル・バイ・リトル」は、遺された者たちの物語だ。モルモットに死なれたユウちゃん(をはじめとした橘家)、妻に先立たれた柳先生、「父」を失ったふみ、しかし彼らには支えがある。救いがある。大切な人を失っても我々は生きなくてはならない。すぐに立ち直れる人もいれば、少しずつ現実を受け止めていく人もいる。しかしどちらの人間にも踏み出しはじめの一歩がたしかにあった。

 

「ふみ」は「踏」であり「書」だろう。

 

柳先生の「どんな言葉にも言ってしまうと魂が宿るんだよ。言霊って言うのは嘘じゃない。書道だって同じことで、書いた瞬間から言葉の力は紙の上で生きてくる。そして、書いた本人にもちゃんと影響するんだよ」という言葉が印象的だ。

一方で「いろんなことが全部、何もかも。翌朝のバイトとか人込みとか、することがない平日や、眠る前とか」が怖いと言うふみに周がかけた言葉は強烈なカウンターパンチとして効いている。

「『俺とか』に『毎回怖いって思うたびに、そう言えばいいじゃないですか』」。

どちらも真実である。ふたりの男が語るふたつの真実を弱冠20歳で小説という形にした島本理生に感嘆する。怖いと口にすることで形を得た恐怖は生々しく人を襲ってくる。それでも、言葉を与え恐怖を形にしないと人はそれに立ち向かうことができない。そして、言葉は聞いてくれる人を必要とする、ひとりではできないことだ。ふみには周がいたからかろうじてそれができた。

この「かろうじて」を爽やかに淡々と書いているところもこの小説の魅力だ。

 

 

文庫本には原田宗典の解説が載っていて、これがめちゃくちゃいいので、これだけでも読む価値があると思う。

林芙美子「小説というのは、どうやって書いたらよいのでしょうか?」

宇野浩二「話すように書けばよろしい。これは武者小路実篤氏が祖です」

 

 

リトル・バイ・リトル (講談社文庫)

リトル・バイ・リトル (講談社文庫)

 

 

 

 

散歩者

そうか、ここは“ひっそり”なのか。

 

夜中、バドワイザー片手にいつもの大通りを歩き、すぐに飲み干してしまったので、コンビニに入る(ハイネケンってかすかに野菜ジュースの味がしないか?  バドワイザー、薄くてうまい)。缶コーヒーとタバコを買ってしまう。洗車を待つ10台のタクシー、ボンネットにもたれてタバコを吸うおっさんたちがかっこよかったのだ。

最近気に入ってる花壇のそばの段になったスペース、そこに座り、大通りを見ながら1本吸う。強い、頭がくらくらする。もう吸わないので、残りはそこに置いた。

座っていると、隣の消防署からかすかにスピーカーを通した人の声がする。もしかして、と思い近づいてみると、何人かの男がのそのそと消防車、救急車の周りに集まっている。

俺は少し離れたところのガードレールに腰掛けてその様子を見ていた。

車に乗らないのが2人いた。1人はシャッターを開けている。もう1人は誘導棒を持って歩道に出てくる。誘導棒は点滅する。点灯しつづけるよりも、着いたり消えたりする方が灯りは目立つ。

 

ようやく消防車と救急車の赤色灯がガレージを照らし出した。誘導棒を持った男が、新聞配達の男を制止する。サイレンが鳴り始める。街中で、家の中で、突然遠くから聞こえてくるサイレンはあんなにもやかましく、心をざわつかせるのに、鳴り始めのサイレンはすごく穏やかに聞こえた。

 

緩慢に車道に出た2台は、のろのろと交差点を通過し、遠くに行く。残された男たちはシャッターを片付け始めたので、僕は家に戻ることにした。救急車と消防車の出動は僕が思っていたよりもずっととろかった。通報に緊急性がなかったからかもしれない。ボヤがあったけど落ち着いたとか、死人がいたとか、なんかわからないが、その程度の内容だったからかもしれない。

 

みたびコンビニに入り、井村屋のあずきバーを買って食べながら歩いた。井村屋のあずきバーが好きな暗殺者の話って絶対にあると思った。飯の炊ける匂いに興奮する殺し屋だっているんだから。俺がこの日井村屋のあずきバーを選んだのは、次のカンブリア宮殿井村屋グループ会長が出るとCMで見たからだった。こういうところだけ、きちんと踊らされてる。

 

夜道を散歩するだけで、1000円近く使ってしまったのは、さっきATMで確認したら、預金残高がひとりでに増えていたからだ。仕送りが入ったため気が大きくなってしまった。色の落ちた紺のパーカーに紺の半ズボンを履いてボサボサの頭で「今回も仕送りありますように!」と祈りながら残高確認をする自分の後ろ姿を、この夜俺は見たような気がした。

 

 

 

『PARKS』(瀬田なつき 2017年)感想文

瀬田なつきは『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』、『5 windows』を見てとても好きになった監督だったので期待していたけど、『PARKS』は鑑賞中ほとんど興味を持てなかった。登場人物たちにはまったく共感できないし、もっと聞きたいと思った音楽もぶつ切りにされる。結局最後までなんのカタルシスも訪れない。“爽やかな”青春音楽映画だと思いこんで見に行ったのはこちらの失敗だったかもしれない。

メランコリックでメルヘンに狂ってる『みーまー』と、黄金町の川沿いを舞台に若者たちの過去と現在と未来が繋がってしまう群像劇(未満?)の『5 windows』の監督が、井の頭公園のなかで未完の音楽が過去と現在を紡ぐさまを撮った映画がおもしろくならないはずはないと思ったのに。この映画は観ているあいだほとんどおもしろがれなかった。

 

しかし見終わって何日か経った今、この映画に対して感じたいろいろな嫌な感じが不思議となくなっていることに気づく。なんならもういちど見てみようか、なんて思ってしまっている。

 

映画「PARKS パークス」予告 - YouTube 

 

死んだ父(盛岡龍)がかつて付き合っていた女性(石橋静河)を探している木下ハル(永野芽郁)は、大学生・吉永純(橋本愛)のマンションに押しかける。ハルの父が遺した写真に写る女性は、純の住むアパートのまさにその部屋のベランダから、井の頭公園に佇みカメラを掲げる彼に手を振っていた。

純はハルの父の「元カノ」探しを手伝う。困っていた卒論のテーマになるかもしれないという打算からだ。ハルも父と「元カノ」の恋の話を小説に書こうとしている。

しかし「元カノ」の孫である小田倉トキオ(染谷将太)が言うには彼女もつい先日死んでしまった。

遺品整理中にトキオが偶然見つけたオープンリールのテープ、そのなかに入っていたハルの父とトキオの祖母の歌声、途中までしか録音されなかったその曲のその先を、3人は自分たちで作り出そうとする。

 

角ばった輪郭に意地の悪そうな表情を浮かべる橋本愛(PARKS』の橋本愛がかわいいと言う人めちゃくちゃ多いけどまったく同意できない)。クローズアップになった永野芽郁のかわいらしい顔の片目は半分ほどの大きさに潰れている。染谷将太を含めた男女3人の会話はテンションが空回りしている(染谷くんのラップはよかったと思う)。

 

桜が舞い散り、美しい陽光に照らされる春の井の頭公園の佇まいとは対照的に、この映画に出てくる主人公ふたりの立ち居振る舞い(ハルと純)はー言葉を選ばなければー不快だった。

 

小田倉家を訪ねたハルと純がドンドンと扉を叩き窓から家のなかを覗き込むシーンにはその非常識さにゾッとするし、彼女らが井の頭公園のなかを走り回るのには必然性がまったくわからなくて、そこはかとない狂気すら感じる。20歳前後の女たちが無遠慮に人の家の敷地に入りこんだり公園を意味なく走るのは不可解だ。若い女が陽光のなか走りまわり、部屋のカーテンが風に揺れる、それだけで青春映画にはなるわけではないだろう。『ちはやふる』を観た僕には『PARKS』の「走り」と「風」はピンとこない。

彼女らの嬌声はキンキンと鼓膜を突き刺して耳障りだった。

 

 

卒論を提出できない純に対して教授(佐野史郎)が≪その曲とやらが完成したら、単位を認めてやろう≫といった趣旨のことを言うのだが、その生ぬるいやり取りを見て成蹊大学だいじょうぶか?と思った(とはいえ僕も卒論提出時にトラブって情けない失態を犯しているので純の不真面目さを責めることはできない……)。卒業生である総理大臣を揶揄するためかな?とか思ってしまった。

 

何をやっても中途半端な純は幼いころタレントとしてCMに出てブレイクしたが、その栄光も遠い過去。一方で、友人の理沙(長尾寧音)はモデルをしたりイラストを描いたりと多彩だから、純は彼女に嫉妬している。

その名前とは裏腹に、純は醜い人間だ。嫉妬と焦燥ゆえに理沙に対してつっけんどんだったり、ハルに八つ当たりしてしまうさまは、負の感情がとめどなくこぼれ出していて、ある意味リアルに人間的なのかもしれない。むしろそういう意味での「純」だったのかもしれない。純度の高い負の感情が噴出してしまっている。

クライマックスのライブシーンで突然挿入される純の内面描写は『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』でのスカヨハによる「捕食シーン」を思い出した。自分の負の感情に喰われてしまう純は憐れだ。

 

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純は見ていて不愉快になるキャラクターだ。何もかも中途半端で、すぐにものごとを投げ出し、ぜんぶ人のせいにし、過去の栄光にすがっている(まるで僕のようだ、僕には過去の栄光すらないが)。ある映画研究家が純を「ツイてない」と表現していたが、彼女の現在のツイてなさなんて徹底的に「身から出たさび」でしかない(あんな女は彼氏にフラれて当然だと思う)。

 

純とハルは友情を育んだ(らしい)純の部屋で喧嘩別れしてしまうが、部屋を飛び出したハルが井の頭公園にいることを願った純は、3人で、いや、ハルの父とトキオの祖母を合わせた5人で作った「あの曲」を園内放送に乗せて歌う。そうしてこの映画はエンディングに向かってしまう。

突然訪れたハルは電車に乗ってひとり吉祥寺から突然離れ、純とトキオは東京のはずれにある公園に取り残される。

純の卒論やトキオの就職がどうなったのかもわからないし、ハルの小説は曲を完成させることによって完成したのかもわからない(突然の挿入される無機質な空間にいるハルが本を閉じるシーン、あれはこの映画のストーリーのほとんどがあの本のなかに書かれている、ということなのだろうか?)。

オープニングと同じようにまた季節は巡って純は自転車を漕いでいる。

 

井の頭公園100周年の2017年に公開された映画であるにもかかわらず、この映画はこの公園の1世紀を祝っているようには見えない。むしろ、戦争による木材不足で大量に木が伐採されたり、未解決に終わったバラバラ殺人事件の舞台であったり、いっしょに乗ったカップルは別れてしまうという噂のあるボートの浮かぶ、いわくつきの公園であることを思い出してしまうような、不穏な映画だった。

 

ハルは過去と現在に分け隔てなく存在してしまうが、似たような作品として黒沢清の『岸辺の旅』を思い出した。

 

映画『岸辺の旅』予告編 - YouTube

 

『岸辺の旅』でカットが変われば人が消えてしまうように、カットが変われば時間を飛び越えてしまうハルの存在。そういえば『岸辺の旅』のふたりも、『クリーピー』ほどではないがどこか通じ合えていないような不思議な空気感の夫婦だった。瀬田なつきにとっての公園は、黒沢清にとっての家庭と同じように不穏な場所なのではないか。そんな風に感じた。

どこにも行けない人間たちが立ち止まったり、空回ったり、むやみに駆け回る場所としての公園、そんな風に思える。

 

美しい青春音楽映画だと思い込んで見てしまったがゆえに観ている間は居心地が悪かったが、こうやって不穏な公園映画として捉え直してみると、再見してみたくなる不思議な映画だ。『PARKS』に吹いている風は不穏をはらんでいる。

再見したくなるからといって好きな映画ということにはならないけれど(むしろ嫌いだ)。

 

 

純のことが気にくわないのは同族嫌悪の感が強いので、つらい。

死ぬ

ドン、と音がして少し走った後、「やっぱりぶつかったんだと思う」と言って車を止めるので、みんなで外に出ると、通り過ぎた夜のアスファルトの上にはやはり鳩が転がっていた。あーあ、とうつむいた後ですぐに母は車に戻り、靴の空き箱を助手席から持ってきて、鳩をその中に入れた。鳩は車のフロントガラスにぶつかったらしい。人気のない夜の農道でのことだった。

 

そのとき彼女は僕の家で遊んでいた友人を彼の家まで送ってくれるところだった。動かない鳩を素手で拾い上げて箱の中に入れる母を友人に見られるのが少し恥ずかしかった。

 

友人に「ごめんね、ちょっと帰り遅くなるけどお母さん心配しないかな?」と母が聞くと友人は「お母さんまだ仕事だから大丈夫です」と言った。彼はよく「俺の家はお父さんがひとりで建てたんだよ、300万円しかかかってないんだよ」と自慢していた。

 

動物病院に着き、母は診察室に入っていった。母が戻るまで僕らは無言だった。戻ってきた母は「もう死んでるんだって」と言い、再び車を走らせた。

 

母が「死んだ動物の体は死体じゃなくて死骸って言うんだよ」とよく言っていたのを思い出した。辞書的な意味での過ちを正しているのではなく、彼女の価値観から導き出した言葉の区別だったんだと思う。

彼女は「《死ぬ》じゃなくて《亡くなる》でしょ」とも言った。人が死んだニュースを見ながら僕が《死ぬ》という言葉を使ったときだ。僕はなぜかその区別が嫌だったので、その後も人が死んだことを話すときには《死ぬ》を使っていた。

 

海に着いた。僕と友人とで砂浜を掘り、大きな穴をつくった。穴の傍にしゃがんだ母は箱に眠る鳩をそのまま転がし、穴の中に落とした。

 

掘り返した砂を鳩の上にかけ、スニーカーで踏み固めた。

 

手、海で洗いなさいと言われ、友人と並んで波に手のひらを浸した。鳩の埋められた砂浜に寄せる波が手のひらを清潔にしてくれるとは思わなかったけれど、もしかしたらあれは清めだったのかもしれない。

 

友人の300万円の家には明かりが灯っていた。走って家に入っていく。

 

こういう話は僕が書くよりもその旧友が書いてくれたらいいのに、と思う。

 

 

「志の輔らくご」in赤坂ACTシアター 「仮名手本忠臣蔵」&「中村仲蔵」感想文

立川志の輔中村仲蔵」をゴールデンウィークに見に行った。

 

ライブや落語とかって「見に行った」でいいのかな、といつも思う。ミュージシャンのライブは基本的には聞くものだけど、でもライブ・パフォーマンスというくらいなので、動いてるさまや衣装、舞台装飾を見るのも楽しみだ。集った自分を含める観客もライブの構成要素なので、たまに客席を眺めてみたりもする。

落語も目で見て楽しいものだ。今年はじめて落語を生で見た初心者なので偉そうなことは言えないけど、やっぱりCDで声だけを聞くよりもずっとずっと濃厚である。

 

(ライブに行くことを「参戦」という気持ち、なんとなく理解できる。でも自分は使う気になれない)

 

立川志の輔が「中村仲蔵」をかける「志の輔らくご」(赤坂ACTシアター)は今年で9年目らしく、のべ3万人は見聞きしただろうと志の輔さんは言っていた。

大忠臣蔵仮名手本忠臣蔵のすべて〜」という『仮名手本忠臣蔵』の解説(講談っていうのかな?)が前半、「中村仲蔵」という落語を後半にやるという3時間弱の長丁場。この構成になったのは3,4年目からと言っていた。

堀尾幸男による歌川国芳のパロディ画が描かれた三枚の巨大なふすま絵を背景にした舞台に、浴衣姿の志の輔さんが出てくる。

中村仲蔵」は歌舞伎役者で、歌舞伎役者は楽屋では常に浴衣でいるそう。この日の本題である「中村仲蔵」をよりよく見聞きするための前知識を補うための前半はいわば「料金外」だから浴衣で出てきたとうそぶいていた。ちなみにこの浴衣の柄は「仲蔵染」といって、菱形に松竹梅をちりばめたもの。中村仲蔵本人が考案した柄の浴衣を着て出てくるとか本当洒落てるなあなんて思う。

 

ふすまが開くとスクリーンが出てきて、志の輔さんはここに次々と映る忠臣蔵の浮世絵をレーザーポインターで示しながら話を進めていく。

300年前に実際に起こった「赤穂事件」に想を得て竹田出雲、三好松洛、並木千柳が合作した人形浄瑠璃仮名手本忠臣蔵』は大序から11段まである長いストーリーで、今回の落語「中村仲蔵」に関わるのは第5段だけなのだが、そこを理解するためには忠臣蔵の大筋は知ってなくちゃならないらしい。

僕は歴史がめっきりダメで教養も皆無なので『忠臣蔵』がどんな話なのかはこの日までわからなかった、まあ志の輔さんの話聞いたら「ああ、なんか聞いたことあるわ〜」くらいには思った、とか言って思わず見栄を張ってしまったので打ち明けておくと、「赤穂」を「あかほ」とか「せきほ」と読んでいたくらいに僕はバカである。「あこーろーし」と聞いたことはある、でもそれが「赤穂浪士」と頭のなかでは結びついていなかった。バカなんです。

 

一般教養のあるみなさんは大体のところ知ってるだろうからここでは「中村仲蔵」に関わる第5段だけ説明を引っ張ってくると……

 

仮名手本忠臣蔵」五段目、通称「鉄砲渡し」の場の後半で、元塩冶判官(浅野内匠頭)家来で今は駆け落ちした妻・お軽の在所・山崎で猟師をしている早野勘平が、山崎街道で猪と間違え、斧定九郎を射殺する有名な場面です。

定九郎の懐には、前の場でお軽の父・与市兵衛を殺して奪った五十両が入っており、
それは、婿の勘平に主君の仇討ち本懐を遂げさせるためお軽が祇園に身を売って作った金。
何も知らない勘平はその金を死骸から奪い……

というわけで、
次幕・六段目、勘平切腹の悲劇の伏線になりますが、噺(「中村仲蔵」)の中で説明される通り、かってはダレ場で、客は芝居を見ずに昼食をとるところから「弁当幕」と呼ばれていたほど軽い幕でした。

 

中村仲蔵」 落語あらすじ事典 千字寄席

http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/62757/60017/6065577

 

というかんじ。めんどくさいのでこれ以上は説明しない。

 

 

この「大忠臣蔵仮名手本忠臣蔵のすべて〜」自体もおもしろかった。と言いながらも途中少し寝てしまったのは、僕がバカだから知らない情報が一気に入ってきて脳みそがキャパオーバーでシャットダウンしたんだと思う。

 

トイレ休憩を挟んで、いよいよ「中村仲蔵」。志の輔さんは高座中央をじっと見つめながらゆったりと下手から歩いてきた。もう凄みがある。なにを見つめていたんだろう。

 

家柄がないにもかかわらず4代目市川團十郎に見初められ、名題(看板役者)に昇進した中村仲蔵がその初舞台で振られた役が「忠臣蔵」第5段に登場する山賊・小野定九郎だった。仮にも5万3千石の家老職にある者の息子・定九郎、それなのになぜこんなみすぼらしい風体で描かれているのか、役者も見物人もこのことを不思議には思いつつも「弁当幕」としてちょうどいいから誰も意に介さなかった。名題になったにもかかわらず仲蔵が「弁当幕」を当てられたのは、前代未聞の出世を快く思わない同僚による嫌がらせであった。

 

名題なのだから「こんな役やれるか!」と断ってもいい、しかし中村仲蔵はこの役をどうにか見られるものにしたいと悩んだ。真面目な人なのだ。

悩んで柳島の妙見さま(芸能にご利益があるとかなんとか)にお参りに行ったりなんかする。その帰り道、急な雨に降られそば屋に入ると(ここの雨の描写なぜだか泣けた、最初ぽとぽと降ってきた小雨にも悩みもだえている仲蔵はきづかないのだが、やがて雨が強まるとさすがの仲蔵も気づいてそば屋に飛びこんだ、というだけの説明なのに)、やがて雨に降られた浪人が入ってくる。

髪はボサボサで身なりはボロだが着こなしは粋、穴だらけの蛇の目傘を持って、豪放な振舞いで酒持ってこーい!と言う。別に悪い人じゃない。僕は『野武士のグルメ』の玉山鉄二をもうちょっと汚して太らせた姿をイメージした。この浪人がお猪口を差し出して店主に酒を注がせながら「おうおうこぼせこぼせ、外にこぼすな、中にこぼせよ」と言うところが、この落語でいちばん好きなセリフだ。

 

すっかり彼の身なりに惚れ込んだ仲蔵は舞台初日、背水の思いで彼にインスパイアされた役作りで臨むのだが、何をやっても見物人たちはシーンとしている。一言も発さない。物音すら聞こえなあ。ああ、みんな呆れてものも言えなくなっちゃったんだなあ、ああ俺は失敗しちゃったなあ、と肩を落として家に帰るなり妻に、あんな失敗したらもう江戸にはいられないわ達者でな、と言って家を出るのだが、町を歩いているとちらほらと芝居の感想が耳に入る。聞いてみればみな口を揃えて仲蔵の演技をべた褒めしている。「俺ははじめてホンモノの定九郎を見たよ」とか「本当に良いものを見ると声なんか出ねえんだな、息すら吐けなかったよ」(「ずっと(息吐けなかったの)かい?」「そんなわけないだろ、死んじまうよ!」みたいなやりとりがかわいい)なんて言っている。

師匠の元に行った仲蔵はべらぼうに褒められて、けっきょく「中村仲蔵」は名優として後世に名を残すこととなった、ということでハッピーエンド。

ちなみに中村仲蔵が演じるまで端役だった定九郎は今では若手の実力者が演じる重要な役になったそう。

 

この落語、「忠臣蔵」本番というクライマックスに話が差し掛かると、舞台向かって左側の客席がスポットライトを浴びた。歌舞伎舞台の花道を照らしているのだ。

観客はみな左側に顔を向けていいのか戸惑い、少しざわざわする。このざわざわ感がしばらく観客の胸に残るため、仲蔵の名演を志の輔さんが「再現」しているのを見た客席は水を打ったように静まり返るのだけれど、同時に不安な仲蔵の心境に観客は感情移入させられる。

歌舞伎舞台を再現するスポットライトでありながら、同時に観客の心をざわつかせることで感情移入もさせる。なんだかすごかった。

 

忠臣蔵」が終わり、仲蔵の演技が見物人に受け入れられたことを知るにつれて、観客席のいたるところから鼻水をすする音も聞こえてくる。とにかく泣けるのだ。

同僚や歌舞伎ファンのやっかみだったり蔑みに仲蔵は信念で持って立ち向かったから感動するのだ。

 

家柄が悪いのにめきめき昇進していく仲蔵を、役者仲間も歌舞伎ファンも快くは思っていなかった。出世街道のスタート時点でこそ、血筋がなくても実力があれば成り上がれるとみんなに勇気を与えたた仲蔵も、家柄なしで名題になるところまで来ると、さすがにみな訝しむ。

由緒ある梨園の制度をぶち壊す出世がみなの気持ちを逆なでするのはわからなくない。

そういう逆風の中にあっても、仲蔵は腐ることなく己を信じ、そして自分を信じてくれた團十郎の想いに応えるために芸に励む。一か八か、この役作りが成功しなかったら役者人生は終わりだという覚悟で、偶然(柳島のみょうけんさまのおかげで)出会った浪人の風体をパーフェクトに盗み、型破りの演技で観客を魅了した仲蔵の生き様はかっこよくて、励まされて、泣けてくる。僕もゴールデンウィーク明けたら頑張ろう、なんて思えてくる(無職だけど、無職だから)。

 

そして何より泣けるのは、この中村仲蔵立川志の輔という落語家と重なるということ。「志の輔らくご」という、舞台装飾や音響、照明というあらゆる仕掛けをこらしてエンターテイメントショーとして繰り広げられる落語を、不愉快に思う人もきっとたくさんいたはずだ。落語家や落語ファンのなかには「志の輔落語」を体験して、本来の落語はうんぬんかんぬんと言いたくなる人もいたかもしれない。

それでも志の輔さんは自身の落語を信じて、さまざまな舞台で見せ方聞かせ方を工夫して落語を革新しているのだろう。その姿勢は僕のような教養のない落語初心者にとってもかっこよく見える。

 

自分が「中村仲蔵」をやろうと思ったのは、この「仮名手本忠臣蔵」という物語が実は侍の仇討ち話に止まらないからだと思ったから、と志の輔さんは言った。「忠臣蔵」は庶民の話でもあるのだ。

めんどくさいからと言って端折っておいてここで話し出すのは恐縮だが「忠臣蔵」という長いお話の中には、お侍さんがたの仇討ちに命を賭けて手を貸す、農民、商人が出てくる。

「武士道」なんて言うけれど、武士がその道歩けるのは、結局「士」を支える「農工商」の庶民たちがいるからだ。

俺たち庶民がいなければ、武士だって成り立たないんだ–––そういう誇りを江戸の庶民たちに持たせてくれたから、「忠臣蔵」という物語は愛されて、今なお歌舞伎やドラマや映画などで「日本でもっとも上演されている演目」だと言われるのかもしれない、と志の輔さんは解釈したらしい。

 

志の輔さんの「忠臣蔵」解釈は、仲蔵が「定九郎」という役を考え抜いたことと被る。演者や噺家自身が作品を深く理解しようとすることで、新たな地平を開いていく。今までにない角度から作品に照らし出し、別の魅力を浮かび上がらせる。

作り手もまた批評家であるのだと、この日の落語を聞いて心底感じさせられた。

 

また、この「中村仲蔵」は観客論にもなるなあ、と思った。落語は見聞きする人があってはじめて成立する。それはあらゆる娯楽・芸術に対しても当てはまることだ。映画も、音楽も、絵画も、演劇も、なんだって、見る人聞く人がいないと始まらない。

忠臣蔵」初日に駆けつけて、中村仲蔵の名演を目の当たりにした歌舞伎ファンたちが、その興奮を他の人たちに伝える。そうすると「俺も見に行こうと思ってたんだよ、明日行こうかな」なんて言いながら、歌舞伎を日常的に見ない人間たちも思いはじめる。そうやって歌舞伎が盛り上がる。

熱心なファンがいてはじめて、あらゆる娯楽・芸術は成り立つのだ。

そういう細かいところをきちんきちんとおもしろおかしく話していて本当に良かった。

 

そして、どんな天才役者も演奏家も、はじめはひとりの見物人に過ぎない。

 

 

https://twitter.com/uno_kore/status/850536490543194112

 

こんな言葉もあるそうだ。

 

 

クライマックス、つまり中村仲蔵による名演から、江戸を出ようとするシークエンスまでの間、隣席で泣きながら笑っている人の反応を見ていたら、志の輔さんの話しっぷりが本当にすごいのだと、落語初心者ながら少し気づいた。「泣かせ」と「笑わせ」のリズム感が絶妙なのだ。話そのものの感動をまったく減退させることなく、ほどよいところで休符的に笑わせるところが落語としての品を保っている感じがあって、心底かっこいい。「落語としての品」だなんて偉そうなことを言ってしまってすみません。でもそんな風に感じた。

 

僕の興奮の言葉は、まだまだ人を動かすには足らないのだけれど、それはまた別の話だ。

 

 

今回、僕はチケットを取ったけれども行けなくなった友人に譲ってもらえて、幸運にもこの落語を見聞きすることができた。次は自力で志の輔さんを聞いて見たいなあと思う。 

ツキ

さっき見たおぼろ月は寺の屋根の上にもんもんと浮かんでいて頼りなかったけど、今はしっかり夜空に張り付いている。宇宙に浮かんでいる、というよりも夜空に穿たれたのぞき穴みたいだ。神でも仏でも死んだ母親でも誰でもいいのだけれど誰かがあの穴の向こうから僕の生活のすべてを見ていたらとても恥ずかしいと思うがそんなことはありえないから、この思いつき自体がさびしい。見られたくないけど見られたい。見られたいけど見られたくない。

 

次の満月を夜通し眺めてやろうか。でも飽きやすい僕にそんなこと続けられないし、それどころか僕はこのロマンティックな思いつきを明日には忘れる。

 

 

小さいころ、宇宙の図鑑を買ってもらってよく読んでいた。まさに天文学的数字で表される宇宙の大きさ、そのなかで流れた時間の長さに興奮すると同時に、宇宙はいつか大きくなりすぎて破裂するか、ある大きさまでいくと今度は縮んでいきやがて消滅するか、そのどちらかの運命を辿るという文章に怯えた。

他にも恐い言葉があった。その運命が訪れる日はもっとずっと未来のことなので、私たちが生きているうちには破裂も消滅も起こりません、というような言葉だ。「私たち」のなかに、僕らの子供は入っていないのだろうか、と思った。

かつての僕は、いまの僕よりも優しかったのだ。

 

図鑑を読みだしてまもなく訪れる誕生日に天体望遠鏡をねだって買ってもらったが、そいつはいちども光を映すことなく倉庫に片付けられた。堪え性のない僕はそれを正しく使うために辛抱できなかったし、買い与えてくれた父は「これ壊れてるんじゃないか?」と言ってそれで終いだった。

 

幼いころ父が読んでくれた『パパ、お月さまとって!』という絵本が好きだった。このしかけ絵本のなかで娘に月を取るようせがまれた父親。折りたたまれた紙を本の上に広げていくと、その父親はハシゴを登っていった。天高く伸びたハシゴは月に届いてしまう。たぶんそんな感じの絵本だった。結末とかは覚えていない。

本来絵本という四角い枠の中で完結するはずの物語が、ページの外に紙を広げることによって拡張していくさま、そしてその自由な発想が好きだったのかもしれない。

 

宇宙飛行士になりたい、小学校低学年のころ確かにそう言った。天体望遠鏡をいじるのにもすぐ飽きたのに、星座を覚えようなんて全くしなかったのに、それでもなぜだか宇宙飛行士になりたかった。

しかし僕はあまり視力が良くなかったので、母は「目が悪い人は宇宙飛行士にもパイロットにもなれないよ」と言った。それはテレビゲームばかりして視力が悪くなっていく僕に対しての注意だったのだが、「宇宙飛行士にはなれない」という言葉をただ鵜呑みにした僕はその夢をいとも簡単に諦めてしまった。

 

小学校の卒業式、証書をもらう前にマイクに向かって自分の夢を宣言させられた。みんなの前で夢を言うなんて恥ずかしいと思った僕はテキトーにお茶を濁すために、「父の跡を継ぎたいです」とウソを言った。いまはもう、そのころ夢見たものを覚えちゃいない。

 

「お天道様は見ているよ」と言うけれど、僕はお月様に見られている気がする。見つけてほしい……? 

 

 

 

 

「危ないことするなよ」

毎朝「危ないことするなよ」という母の寝ぼけた声に送られていた。


母は夜ふかしばかりしていて、小学生のころはいつも僕が下校する時間に起床していた。ある深夜、尿意を感じて目覚めた僕がトイレに行こうとすると、ダイニングの椅子のうえで膝を抱え、テレビの砂嵐を見つめている母を見たことがあった。恐かった。

夜ふかしな母は夜に機嫌がいいことが多いので、僕も夜ふかししていろいろなことを話した。何を話したのかはてんで覚えていない。母といっしょに爆笑オンエアバトルを見ていた。

 

専業主婦だった母は朝起きる必要がないので起きなかった。朝食はいつも前日スーパーで買ったどら焼きとか冷凍食品の大判焼きといった僕の好きなあんこの入ったお菓子か、父の作る目玉焼き納豆丼だった。ちなみに学校から帰ってきた時間はちょうど起きて間もない母がその日はじめての食事を取るタイミングと重なっていたので、母とキョーダイといっしょに「ウリナリ」とか「世界まる見え」を見ながらうどんをすすった(僕の地元には日テレの電波が届かず、そのためフジテレビ系列のチャンネルで2ヶ月くらい遅れた夕方にそれらの番組が流れてきた)。1日4食とっていたせいで、小学4年生くらいまでの僕は太っていた。5年生に上がって放課後のクラブ活動に参加したおかげで自然と痩せていった。

 

いつから母が「いってらっしゃい」の代わりに「危ないことするなよ」と言うようになったのか今はもうわからない。母はもう死んだので聞くこともできない。


しかし確かに小学生のころの僕は「危ないこと」をよくしていた。
低学年時代だけでも、小学1年登校初日に集団下校の列から離れ迷子になったり、転校してきた体のでかい男と大ゲンカして彼の二の腕を思い切り噛んだり、体の小さな友達をおんぶして廊下を走っていたら転んでしまい手で窓ガラスを突き破り血だらけになったり、セミ捕りで登った木から落ちて気絶したりした。
すぐに思い出せるだけでも色々と「危ないこと」があった。きっと僕が覚えていない「危ないこと」も無数にあったのだろう。母にとってはじめての子供だった僕が、他の子よりお調子者で乱暴者だったのだから、母は気苦労したのかもしれない。

 

 

母は幼かった僕をあまり外で遊ばせなかった。土日の休みの日、「らさ君遊ぼうよ」と遊びに誘ってくれた友だちをインターフォン越しに「今日は家族で出かけるからダメなんだ」と何度も断った。たまに家に入れてゲームしたことはあったけれど、断った思い出の方が強く残っている。

 

どうしても友達と遊びたくて、家の貯金箱からお金を盗ったことがある。母に内緒で家を飛び出し、近所の駄菓子屋に行くと友だちがいた。そこには50円でできる「ストリートファイター」や「メタルスラッグ」のアーケードゲームがあって、みんないつもそこに集まっていたのだ。いつもいない僕を見かけても彼らは何にも言わずに迎え入れてくれた、と思う、あまり覚えていない。覚えているのは、ゲーム機の前に座る僕を連れ戻しにきた母のジーパン越しの太ももと怒った声と、その瞬間の諦めだけだ。

 


「危ないことするなよ」という言葉は大学入学に伴って上京するまでずっと言われてきた。

中学に入ると土日も部活動があって母は遠征地に送り迎えしてくれるようになったし、高校からは昼食が弁当になったので、早起きしてくれるようになった。

そのころの母はしきりに「むかしのお母さんは抑うつ状態だったのかもしれないね」と笑っていた。僕が高校に入ってまもなく父が躁鬱病になり、母はいろいろ勉強したために、かつての自分のこともわかるようになったのかもしれない。

 

大学に入り、ひとり暮らしを始めてからはもちろん、「危ないことするなよ」と言われなくなった。好きな時間に起きて(学校には真面目に行かなかった)、好きな時間に帰ってきてよかった。何をしても母に知られることはない。僕は自由だった。


にもかかわらず、僕は大学時代何もしなかった。アルバイトもしなかったし、サークル活動もそうそうに辞めた。夜遊びはしない、遠出もしない。何人か大切な友人ができてダラダラとくだらない話を朝まですることはあったけれども、彼らと何か強烈に思い出に残るようなことをした記憶はない。
僕は彼らがときどき言う「お前らといると本当に落ち着く」という言葉が大嫌いだった。僕には彼らしかいなかったが、彼らは僕以外にも友人がいた。彼らは他の友人と「危ないこと」をした。僕は「危ないこと」をする友人を最後まで持てなかった。それはもちろん僕が能動的に動かなかったことが問題なのだが、それでも彼らの「お前らといると落ち着く」という言葉は嫌いだった。僕のキャンパスライフはずっと落ち着いているのだ。本当はお調子者で乱暴者なのに。

 

だから、たまに大酒かっくらうと暴れた。暴れる僕をなだめるゼミの先輩をぶん殴ったり、コインパーキングの看板を叩いて拳を血だらけにしたり、緑道のベンチをひっくり返したり、買ったメロンパンをちぎって帰り道を取り囲むアパートたちのベランダに投げ入れたりした。そういうことは全部あとから誰かが教えてくれる。

 

そういえば母は毎日酒を飲んでいた。缶ビール6缶くらい(500mlだったか350mlだったか忘れた、その時々だったろうか)、とりあえず毎日半ダース買っていたことは覚えている。夕飯を作りながら飲み、夜中までちびちび飲み続けていた。他の酒は飲まなかった。晩年は酒の量も減っていたが、死後彼女の財布を見たら、死ぬ前日まで彼女はビールを2本買っていた。


中学2年のころ、部活から帰った僕はめずらしく母の夕飯の買い出しに付き合った。小学生時代は毎日のように母の運転する車に乗って、キョーダイといっしょに買い物についていた。中学の部活は6時過ぎまで続くのでその習慣はなくなったが、その日はたまたま部活が早く終わったので、たまには着いてってやるか、と思い、車の後部座席に乗った。

 

スーパーの帰り、後部座席で横になり眠ってしまった僕は、母の「大丈夫!?大丈夫!?」という大声で目覚めた。
お気に入りの白いパーカーが赤く染まっている。母は今までに見たことのない切迫した表情で僕の顔を見ている。彼女の背後にある車のドアは開きっぱなしで、外には何人か人が集まっていて、別の車のヘッドライトが眩しい。「事故に遭ったんだよ、大丈夫?」と母が言う。ふと痛む頭を拭うと袖に血がべったりついた。頭から血を流していると知った僕の体はがたがた震えだした。母は「大丈夫だから」と言い残して立ち上がり、ヘッドライトのつきっぱなしになった車の横に佇む男に「早く救急車呼びなさいよ!」と怒鳴っていた。


結局僕は8針ほど縫っただけで済んだ。ぶつかってきた車の運転手は酒に酔っていたらしい。後日彼は両親に連れられてフルーツの詰め合わせとお見舞金を持って僕の家にやったきた。「申し訳ございません、こいつには嫁と娘がいて、でも今は別居していて……」みたいなことを彼の父親が言っていた、ような覚えがある。あとから母に教えられただけかもしれない。
その事故以来、母はずっと飲んでいたエビスビールから銘柄をアサヒに変えた。事故の衝撃で飛んできたエビスビールが、僕の頭を傷つけたからだ。車のなかにはビールの泡が飛び散っていたという。


僕は車の運転がとても下手だ。免許をとってまもなく母を助手席に乗せて何度かハンドルを握ったが、車を降りるとき母はいつもグッタリしていた。やがて僕はまったく運転しなくなった。

 

高校生のころ、ふたりの友人が中型バイクの免許取った。彼らは僕を後ろに乗せたがった。どこかに遊びに行くとき、大きなエンジンを轟かせて僕の住む閑静な住宅街に乗り付けた。その音を聞いた母は外出を許さなかった。


「バイクの後ろに乗るなんて危ない、ケガしたらどうするの!?」


何度もケンカした末、僕は迎えに来てくれる友人と、家から少し歩いたところにある郵便局の駐車場で待ち合わせるようになった。

同い年の友人が運転するバイクの後部座席に座っていると、耳のそばをつぎつぎと流れていく夜風の音が、「危ないことするなよ」という声をかき消した。しかし僕はその風の音をまだ自力で捉えることができない。
高校1年でバイクの免許をとったふたりの友人、ひとりはバイク屋の跡取りとなり、もうひとりは公務員として働いている。僕は東京で無職をつづけている。