ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

きょうのこと

チョコレートパフェを食べるつもりで入ったカフェがハッピーアワーしてたので、1杯だけビール飲んで、店を後にした。しっかりチャージも取る店だったので結局割高、悔しい。

 

その店についてはいろいろ気にくわないところがあって、なにかしらグチりたい気持ちもあるんだけど、そういうマイナスな感情をぶちまけるために色々説明しなきゃいけないのもめんどくさい。嫌なことを説明するために言葉を尽くすのはめんどくさいなあ〜〜〜。まあビールはおいしかったし、俺はジャンボコーンが好きなんだと知れたのでよかった。良かったことだけ積み重ねよう。

 

 

つい半年前にこんなことを書いてたのに今はもう「良かったことだけ積み重ねよう」なんて言ってる。

でも半年前のこの文章はなんとなく指が乗って書いてるだけで、自分の考えが全部反映されてるわけじゃない。なんとなく書いてたらなんとなくそれっぽい結論が見えてなんとなく置きにいった、みたいな文章だ。不誠実だ。

……と思ってちゃんと読み返したら最後に「うだうだ言ってないで、なんでもかんでも書きゃあいいんだよ」と書かれていたから、少し勇気づけられてしまった。

 

夜は家でピザ取って食った。俺の住むマンションに着いた配達の男が電話をかけてくれてピザの到着を知り、エントランスまで降りてピザを受け取った。インターホンが壊れてるので、オートロックの入口を開けてやることができないのだ。インターホンが壊れてもう2年以上は経つだろうか。多分壊れたまま俺はこの部屋を後にする。

 

きょうのこと

 

こんなことを書いてしまった。書くことねえけど書きたいなあなんて日は今日1日のことを書けばよかったんだ。なにを気負っていたんだろうと思ったので、今日のことを書く。

 

恋人が「ひよっこ」を見ているのに気づいて、俺も目覚める。サイドテーブルに置かれたメガネを取る気力もないから、ベッドに横たわったまま、ぼやけた視界でなんとなくすずふり亭でのアレコレを見る。

 

腹が減ってたので昨日作ったカレーを温めて食う。昨日より辛くなってたので辛さを和らげようと思い、作り置きされてた山形だしをかけたら案外うまかった。

ちなみにカレーは夏野菜?をいろいろぶちこんだやつで、めちゃくちゃおいしくできた。恋人に教えてもらいながら、協力して作ったものだ。

 

白米の上に、パプリカとアスパラガスとぶなしめじを炒めたものを乗せて、その上にナスやニンジン、タマネギの入ったカレーをかけた。半熟卵も乗せた。

 

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すごくきれいな彩り。

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とてもうまかった。食べものの写真を撮るのは難しい。盛付けが下手でもある。こぼれてるし。

 

カレーを食べた後はマンガ読んだり小説読んだりして、ドラッグストアに寄ったら、もう昼。「やすらぎの郷」を見て再放送で「ひよっこ」を見る。今度はちゃんとメガネかけて見た。

 

ライター募集してるとこにメールを送る。採用されるといいな。でも俺はからっぽだから……とか思ってしまう。勉強しよう。俺は書きたい。書きたいのに書けない。悔しいぞ。

 

ツタヤでマンガ借りて立ち飲み屋で飲んで、恋人宛に届いたお中元のビールをヤマトに引取りに行ってテンション上がった。

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夜食に恋人が作ってくれたオムカレーを食う。めちゃくちゃうまかった。バターライスに挽肉を入れたのが勝因だと言って胸を張る彼女がかわいかった。

 

勉強したいとか言うわりに遊んでばかりの1日だったので恥ずかしい。

そういえば俺はまともに勉強したことがないので(まともに勉強しなくても大学卒業までいけちゃうのは嘆かわしいことだ)、勉強の仕方が分からん。そもそも何を勉強したいのかも分からん。覚悟がないからだろう。

からっぽ

さいきん毎日書くチャレンジをしてる。今は23:45。今日のノルマを達成できるかギリギリだ。

 

むかし、読書感想文が書けないと焦る俺に「そういうとき私は書けないことについて書いたよ」と母は教えてくれたので、その教えに従って、この文章を急いで書いてる。

 

書けない。書きたいことがないから。でも書きたいという気持ちだけはある。

しかし、からっぽの人間からは何にも出てこない。

 

おまえはからっぽなんかじゃないよ、と言ってくれる人がいる。からっぽなんじゃなくて、自分の中身を出す手段を知らないだけなんだ、と。本当にそうなんだろうか。そうだったらいいな。

 

 

というか、俺がからっぽなわけがない。27歳まで生きたら何かしら思うところはあるはずだ。なのに自分がからっぽに思えてしまうのは結局、俺が全然自分と向き合ってないからだろう。そういえば大学生のころの俺は「自分を掘り下げていったい何の意味があるのさ」とうそぶいていた。めんどくさかっただけのクセに、こわかっただけのクセに。

ここまでしか書けなかった、23:59。

 

大森靖子 kitixxxgaiaツアーファイナル in Zepp DiverCity感想文

去年のTokyo Black Hole(TBH)ツアーファイナルで大森靖子が言っていた言葉が忘れがたい。自分で書いた感想文から引用する。

 

私の音楽はちょっとだけしか気分を上げない、アイドルはぶち上がるんだけど、と大森靖子は笑っていた、そんなことないよーという黄色い声はかわいかったけれど、その後の大森靖子の言葉はかっこよかった。死線はここだから、そこからちょっと上がれば十分だ、と。彼女はそんなようなことを言った。

「あなたをフォローしています」 大森靖子 Tokyo Black Holeツアーファイナル in ZEPP TOKYO感想文 - ひとつ恋でもしてみようか

 

しかし今回のkitixxxgaiaツアーファイナルの大森靖子はどうだったか。「IDOL SONG」を歌った大森靖子のライブはパーフェクトなショーで、観客をめちゃめちゃにぶち上げてくるものだった。観客はピンクのライトを振り上げ、声を出し、体を揺らす。フロアは揺れる。

 

この感覚は去年の大森靖子のライブでも味わった。去年2月の赤坂BLITZワンマンの時のことだ。
その時の感想文で僕はこんなことを書いていた。

 

大森靖子のライブに初めて行った2年半前、そしてそれからしばらくは彼女の歌に泣かされる事が多かったのだけど、今年に入ってから行った2回のライブ(リキッドルームときょうの赤坂BLITZ)はともに笑顔にさせられるもので、これはすごいことだなあと思っている。

最初から希望とか歌っとけばよかった 大森靖子「HELLO WORLD! MYNO. IS ZERO」雑感 - ひとつ恋でもしてみようか

 

大森靖子のkitixxxgaiaツアーファイナルは、TBHツアーファイナルと地続きというより、出産後初のワンマンライブとそのフィーリングを同じにしていると感じた。今回のツアーに対して僕は、大森靖子の音楽が死線ギリギリを超えさせるものではなく、そのライブの瞬間死線を忘れさせてくれるという印象を抱いた。
そのことは大森靖子自身が今回のツアーを「超移動式楽園キチガイア」と称したことからも伺える。《キチ(基地/聖地)+ガイア(地球、女神)》というコンセプトの「ひみつきち」に集ったものたちの祝祭の場、それが今回のツアーだった。

 

ライブハウスというハレの場、たのしさもかなしさも等しく喜びとして慈しめる楽園的空間から、日常に戻った僕らは死線の存在を思い出す。でも、大森靖子はまたすぐに次のライブをかましてくれる。その時までなんとかがんばろうと思う。そんなライブを見せてくれた。



今回のライブ、大森靖子のギターの音だけが明瞭に聞こえたのは「あまい」の冒頭だけだったんじゃないか。今回のライブは常にバンドサウンド、あるいはSugarbeansの伴奏が鳴っていた。大森さんはあまりギターを弾かなかった。


弾き語りの大森さんは、観客の顔ぶれや会場の雰囲気によってその日のセットリストをリアルタイムに組んでいくスタイルを取る。しかしこの日は弾き語りセクションをひとつも設けないまま、あくまでも《シン・ガイアズ》のボーカル・大森靖子として最後まで歌いきった。
もちろんMr.Children桜井和寿サザンオールスターズ桑田佳祐がそうであるように、圧倒的なフロントマンとしての大森靖子がそこにはいる(なんたって《超歌手》だから)。しかし、ミスチルがあの4人のバランスで成り立っているように、サザンを脱退した大森隆志のプレイが時々恋しくなることがあるように、シン・ガイアズの演奏も、彼らでなくては成り立たなかった。だから、シン・ガイアズとは《大森靖子》の別名なのだ。


ピエール中野のドラムもパワフルかつ正確で特に今回のライブはバランスが絶妙に感じられたし、えらめぐみとアイコンタクトをしながらの演奏がシン・ガイアズの屋台骨になっていた。あーちゃんのコーラスも素敵で不可欠になっていたし、サクライケンタはもはやいるだけで最高……ギターソロと大森さんとの熱い抱擁はこのライブのハイライトのひとつ。
しいて言うなら個人的にはギター・畠山健嗣、キーボード・sugarbeansがとても好きだった。畠山のギタープレイはカラフルだ。iPhoneを使ったスライドギターや「地球最後のふたり」でのねちっこくアダルトなプレイ、歪みの効いたギターソロがかっこよかった。sugarbeansの伴奏のみで演奏された「M」は、その強烈な歌詞世界とは裏腹に、まるで90年代から00年代前半の歌番組で歌い上げる女性歌手を彷彿とさせるサウンドに貢献していたし、「オリオン座」の観客を巻き込んだ合唱を支えていた。


ここで思い出すのが「オリオン座」の大森さんのパフォーマンスだ。観客に歌を任せてしまった彼女はステージ上を動き回りながら歌詞を全身で表現した。それは手話ともダンスとも違う躍動で、まるではしゃぎまわる子供のような自由さで歌詞を体現してみせる。
『kitixxxgaia』のリード曲「ドグマ・マグマ」では《誰でもなれます GOD》と歌われていたが、「オリオン座」を先導する大森靖子は神でも菩薩でもなくて、まるで少女だった。《手を叩いて見るものすべてを喜ん》でいる子供がそこにはいた。


だからこそ、本編ラスト「アナログ・シンコペーション」が終わり、Sugarbeansの奏でる鍵盤の音色広がる中で大森さんの流した涙が強烈に印象に残った。その時彼女はこんなようなことを言ってなかったか。
「わたしには音楽しかありません。みなさんがいてくれるおかげで今日の音楽ができました。もらった愛情は音楽で返します。これからも愛させてください。ありがとうございました」
あの涙の理由は分からない。でも今まで本編ラストの定番曲だった「音楽を捨てよ、そして音楽へ」が「アナログ・シンコペーション」に繋がることがこの日のセットリストのクライマックスだったことは疑いようがない。


《言わなくても伝わるマジカルミュージック 抽象的なミュージック止めて》の静寂と爆発を経て、《でも音楽は……》に続く時間の糸を紡ぐために選ばれたのは「アナログシンコペーション」だった。
《あなたとの違いをシンコペーション》、《それぞれの音を鳴らそう 混沌から未来を絞り出す どでかい秘密基地》という歌詞やタイトルからも分かるように、「アナログシンコペーション」はライブの一回性・偶然性を信じ、それゆえに起こる奇跡を言祝ぐ楽曲。
練りに練られたセットリストも、演者・スタッフのみならずその日ZeppDiverCityに集まったファンや観客たちによってはじめて形になったことは確かだった。

 

今回のツアー、僕は仙台rensaで行われた初日も目撃した。初日と最終日のセットリストはほとんど変わらない。「夢幻クライマックス」がバージョン違いだったことと、最終日には今度発売される新曲「draw(A)drow」が追加されただけ。あとはまったく変わらない。それでもツアー最終日はまったく違うライブだった。演奏、演出、アレンジ、会場の空気。それらすべてがパーフェクトだった。仙台の時はまだリズムが合っていなかったり、アレンジが完成してなかったりした。ツアーを経て理想とする完成形に近づける、そういうプロフェッショナルな営みの果てに、今回のZeppDiverCityのライブがあった。
パッションのみに頼らず、技術とアイディアと努力で到達した末、純度100%のパッションがみなぎっているエモーショナルなライブ。情熱がなければ、技術もアイディアも努力もありえない。

 

いつかのファンクラブ限定イベント「続・実験室」で「大森さんのとこは楽しいだけじゃなくて反省会とかでとことん話し合う。よりよい音楽をやるための環境があってそれが心地いい」というような発言がバンドメンバーから出ていたことを思い出す。個人的にはそのことを肌で感じられたツアーになった。仙台、福岡、札幌、大阪、名古屋のどれが欠けてもきっと大団円とはならなかった。


仙台rensaから、というよりも『kitixxxgaia』収録曲の中でもっともパワーアップしていた楽曲は「地球最後のふたり」だと思う。あんなにかっこいいライブアレンジになるとは! この夏のフェスでガンガン鳴らしてほしいと思った。

 


「アナログ・シンコペーション」の歌い出し《あのステージへ続く 光の道》を美しく視覚化していた照明はTBHツアーファイナルの時以上に効果を上げていた。
個人的に印象に残ったのは「きゅるきゅる」のカラフルなおもちゃ箱みたいなレインボーの彩りと、「IDOL SONG」の明るく楽しい生前葬みたいな放射する走馬灯のきらめき。他にもアプガと披露した「夢幻クライマックス かもめ教室編」のダンスホールのような明滅(とアプガと大森さんの妖艶)にクラクラした。
そしてやっぱりいつも通り、他のミュージシャンのライブ以上に、フロアの観客を照らすライトが目立ったように思う。ミュージシャンのみならず観客にもスポットライトをあてる。これこそ大森靖子のライブだ。

 

観客は入場時に「オリオン座」の歌詞プリントを手渡される。TBHツアーの時も同曲を始める際「合唱の時間でーす」と言った。この曲はみんなで歌う曲になってる。僕ももちろん歌うんだけど、この歌詞を自分で歌うとどうにも泣けてしょうがない。「オリオン座」を歌うたびに大森靖子はなんでこの曲を泣かずに歌えるんだろうと不思議になる。大森靖子のライブは「絶対彼女」のコールアンドレスポンスもお約束になっていて楽しい。
しかしこの日は定番やお約束だけじゃなかった。「音楽を捨てよ、そして音楽へ」で《音楽は魔法ではない》のシュプレヒコールが上がったのだ。お約束ではない、このシュプレヒコール大森靖子アジテーションによって起こったわけじゃない。大森靖子を中心とした、もちろん観客も含むシン・ガイアズのエネルギーが《音楽は魔法ではない》の合唱に昇華した。

 

もちろんそれは大森靖子の圧倒的な歌唱が観客を揺さぶったからだ。

 

前に大森さんは、全公演を乗り切るために逆算して1回のライブにおいて声の出しどころをわきまえ、時にセーブして歌うようなスタイルに対する違和感を語っていた。プロはそうすべきなんだろうけど、自分はそことは距離を置きたいというような趣旨の発言。
だからこの日の大森さんも、そんな風に力を抜いたりはしなかった。1回の公演を全力で歌い切る。それはきっと2度と訪れることのない、いまここでしか鳴らせない《アナログシンコペーション》を鳴らそうとしているからだ。本編全17曲の間にMCはたった1回、1分にも満たなかったはず。
 

「ドグマ・マグマ」では《誰でもなれます GOD》と歌われているけど、それは生き抜いて、生きているからこそたどり着ける高みだ。大森さんは自分が神になれたとは思っていないだろうし、僕も大森さんを神だとは思っていない。
しかし、ひとりの人間・大森靖子は、ひとりひとりの他者が放つ、軽重さまざまな想いや無意識と真摯に向き合い、ぶつかり合い、傷ついている。たしかにその姿は神の似姿かもしれない。それを神に見まごうのも無理はない。しかしその神は僕をただ救ってくれる存在ではない。最終的に僕を救うのは僕だ。その希望をくれたのが、このキチガイアツアーだった。


ステージ中央に掲げられた青柳カヲルの絵を思い出す。そこには黒い穴の向こう側に浮かぶ月に照らされながら座り込むひとりの少女がいる。その表情は明らかに大森靖子その人だ。彼女は孤独なんだろうか。ならば、僕も孤独な混沌の紫の中に身を沈めてみよう。そこからしか見えない心の黒い穴を通じてふたたび出会おう。


いつからか、「結婚したことによって自分は名字も変わったから、私はもう大森靖子じゃないんですよ。《大森靖子》はみんなで作るもの」みたいなことを彼女は言うようになった。それぞれの《大森靖子》像が重なりあい反発しあって増殖したり削り取られていく。それぞれの想いが《大森靖子》という偶像を築いていく。そこには教義なんてものはなくて、ただ自分だけが信じるそれぞれの《大森靖子》がいるだけだ。それぞれの投射する像を受け入れられる器になってやろうという大森さんの気概が、心意気が、信念が、慈愛が、キチガイアをつくった。

 

 

このファイナルでいちばんグッときた曲は「君に届くな」。

こうして食べて、生きて、こころが膨張して、なにかが削られて、気持ち悪い
その全てを、全世界にぶち撒けたい私の全てを、
君にだけは届けたくないほど
君が好き

大森靖子 公式ブログ - 君に届くな - Powered by LINE

 

僕にはまだぶちまけられるほどの己もなくて、そのことをめちゃくちゃに突きつけられた。おもいきり全力で生きて歌ってファンを肯定する大森さんは果てしなく遠くにいる。それなのに近くに感じられる。この遠近の融解はいったいなんなのだろう。つい無内容な自身の中身をぶちまけてしまいたくなる。なんにも無いのに、ぶちまけたい気分だけがある。だからこのライブが終わった後の僕は、圧倒的に楽しいライブに「めちゃくちゃ楽しかったなあ、すげえなあ」と感想しながら、めちゃくちゃに歯がゆくて焦ってしまった。

 

セットリストをナタリーから引用して終わる。

お台場に“超移動式楽園キチガイア”!大森靖子、圧倒的に最高なファンとツアー完走 - 音楽ナタリー

01. ドグマ・マグマ
02. 非国民的ヒーロー
03. イミテーションガール
04. きゅるきゅる
05. 地球最後のふたり
06. ピンクメトセラ
07. LADY BABY BLUE
08. マジックミラー
09. 夢幻クライマックス かもめ教室編
10. M
11. オリオン座
12. 君に届くな
13. 最終公演
14. あまい
15. TOKYO BLACK HOLE
16. 音楽を捨てよ、そして音楽へ
17. アナログシンコペーション
<アンコール>
18. draw(A)drow
19. ミッドナイト清純異性交遊
20. IDOL SONG
21. 絶対彼女

 

これだけのライブをやってのけた後の弾き語りツアーはどんな感じになるんだろう。

「世田谷温泉 四季の湯」感想文(銭湯に行くようになった③)

今日行った「世田谷温泉 四季の湯」は今のところ俺が好きな銭湯上位3つに入った。低温スチームサウナ(入口から対極の2段目がいちばん熱くてオススメのポジション)、手足がしびれるほど冷たいが痛くなるほどではない水風呂、柔らかいお湯、バイブラ……。温泉とうたっているのに温泉じゃないのは寂しいので、温泉と同等の効果があるらしい薬湯まで備えている。

男湯と女湯が日替わりらしく、今日俺が入ったのと逆の右ののれんをくぐると、バイブラの代わりに電気風呂、スチームサウナの代わりにドライサウナがあるらしい。ちなみに好きな銭湯残りのふたつは、三軒茶屋の「駒の湯」、祐天寺の「大黒湯」だ。

 

世田谷温泉、入口脇にある空き缶ペットボトル用のゴミ箱が満杯だったので、中で捨てようと思ったが脱衣所のゴミ箱も同様だったので捨てられなかった。不潔なのか……?といぶかしんだが、脱衣所も浴室はとてもキレイだった。サウナもキレイで木の香りが漂っている。ゴミ箱が満杯だったのはタイミングの問題だったかもしれない。

 

入口では大きなクマのぬいぐるみが出迎えてくれる。

 

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銭湯に行くたび個人的に気になるのが脱衣所のマットだ。いろんな男から垂れた水や汗を吸収しているように感じられて、あの上にはあんまり立ちたくないことが多い。その点、世田谷温泉のマットは清潔な感じがして、とても気持ちよく歩けた。あのマットレスを清潔に保つのほんと大事だと思う。

 

サウナでととのうのは《サウナ室→水風呂→休憩》のプロセスのうち休憩の時だと最近知ったので、今日は休憩をしっかりとった。休憩していると心臓が高なり体がふわふわしてくる。今日はまだ「ととのったー!!」の絶頂には達せなかったが、とても気持ちよかった。最近ちょっぴりあせもが出ていたんだが、サウナで体の毒素が抜けたのか、治ってしまった。あと水風呂の上の窓が開いていたので、その辺りでぼーっと立ったり座ったりしながら涼めるのもよかった。

 

最近銭湯に行けてなかったので、鼻詰まりが酷かったんだけど、それも今日ですっかり治ってしまった。いつも水風呂に入ってる時に鼻がスッキリ通るのを感じる。鼻腔の奥を清廉な酸素が撫でるのだ。副鼻腔炎、鼻炎には鼻の乾燥が大敵なんだが、俺の場合、銭湯に行くだけでだいぶ改善できる。


そういえばサウナ室で残念だったのはテレビのリモコンがきかなかったこと。サウナ室に誰もいない時間があったので、稲田防衛大臣の服装をチェックしてるくだらない番組を流すテレビを消そうとしたが、リモコンは反応しなかった。テレビのコントロール権があると思ったのに消せなかったのは、消せないとハナから諦めてる時よりも落胆が大きかった。

 

浴室から出るとすでに恋人が待っていた。彼女の手元にサイダーがあったので、俺も買った。

 

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なんかめちゃめちゃいろんな種類のサイダーが置いてあった。地サイダー&地ラムネを飲もうみたいなキャンペーンが行っているとのことで、スタンプラリーをやっていた。同一銭湯で3本サイダー&ラムネを買うと「限定王冠風コラボバッチ」がもらえるらしい。9月3日までにもう一度世田谷温泉に行かなくては。

 

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外に出るといい風が吹いていた。近くの稲荷神社では盆踊りをやっていた。いい夏だ。

 

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上野顕太郎『さよならもいわずに』感想文

さっきまでふつうに生きていた最愛の妻が突然死ぬ。遺された幼い娘と共に、男は絶望を味わう……。

そう書くと、とても「ありきたりなドラマ」に思われるかもしれないが、これは作者・上野顕太郎の身に実際に起こった唯一無二の人生の話だ。

 

ひとりの個人にとって身を引き裂かれるような酷いリアル、しかしそれは他人にとっては「よくある話」だ。たくさんある不幸話のひとつ。

目の前にいる友人や同僚に「実は俺の奥さん突然死んじゃってさ」と言われれば、「つらいな……」とひとことかける。隣にいてやって少しでも慰めになれないかと親身にもなる。しかし、そんな話を知らない人間にされても、まさに他人事に過ぎない。戸惑うばかりだ。

この《他人事》をどうやって見知らぬ読者に突きつけるか。ひとりのマンガ家が妻の死という現実を作品というフィクションに結実させようとした時、そこには並大抵ではないプレッシャーがのしかかる。それでも彼はそうせずにはいられなかった。なぜなら上野はマンガ家であり、そして亡くなった妻を愛する男だったからだ。

 

そのプレッシャーと闘いながら描いた『さよならもいわずに』はやはり壮絶だ。

喘息持ちだった妻は、2階で夫が仕事をしている間に、発作に見舞われてうつ伏せに倒れてしまった。夫が1階に降りてきた時には既に事切れていて、だから後は葬儀まで決まりきった段取りに合わせて男は見送りの準備をするしかない。自宅で死んだ場合は警察による実況見分が行われる。男は発見時の妻の様子を伝えるために、死んだ妻がそうしていたのと同じようにうつ伏せで横たわらなくてはならない。

 

《キホちゃん》と《顕太郎さん》、そして娘の《カリン》に起こったたったひとつの決定的な出来事に作品としての固有性を与えるために上野はペンを走らせている。マンガ家として身につけた技術、知識、アイディアを全て詰めこんだ上で、顕太郎個人としてのひとりよがりに陥ることなく、キホちゃんの死を作品に結晶させるために奉仕している。人の死を過不足なくパーフェクトに作品にする。その情熱というか意地というか……執念。まさに顕太郎個人の執念が、上野顕太郎というマンガ家の持てるすべてを引き出し、この一冊に集約させたのだろう感じられる。とにかく絵がすごいのだ。

 

晩年のキホちゃんを写したインスタントカメラを現像に出した帰り道、道行く人たちを見ながり「一体何故、何故キホが⁉︎  何故あなたではなく………」と顕太郎は思う。その言葉は縦横7×10計70コマの見開きにずらっと描かれた人々の顔の上に乗る。この悲痛な、声にならない叫び。大切な人を突然亡くした時、誰もが思ってしまうであろう言葉。70人の見ず知らずの老若男女がひとりひとり丹念に描かれているからこそ、「一体何故」という問いにならない問いが重く響く。理由や答えなんてないのに、そう問わずにはいられない。

 

キホちゃんをたったひとりの、この世に生きた最愛の人として描くために上野はささいな描写を重ねていく。風呂に入ろうとすると着いてきて「ウヒヒヒヒヒヒ、いいシリしてまんなー」と言って浴室を覗くキホちゃん。喘息だから減らしていた煙草の量が最近また増えていたキホちゃん。お酒も煙草もこれからは減らすようにすると反省するキホちゃん。テレビゲームの楽しさを教えてくれたキホちゃん。

ふたりの間でしか使われない「サパリー、サパリー、サパリー夫人」や「生ちちいい?」という言葉や、同じベッドのなか「愛はあるよ」と言い合って背中を向けて寝る習慣。そういうディティールが丁寧に描かれることによって、「愛があった」ことを作品に刻む。

 

美しいことばかり描いてあるわけじゃない。キホちゃんの鬱の波がぶり返してきた時、顕太郎が「こまったな やっかいだな めんどうだな」と思ってしまったことも上野は書いている。負の感情も描くことで、作品に深みが出ている……のではなく、現実はいつもそういうものなのだ。美しい愛があり、言えないような醜い感情の動きもある。それをそのまま描いているだけなのだ。そして現実をそのまま描くのは恐らくとても困難なのだ。

 

最も印象に残るのは、顕太郎が見た生前最後のキホちゃんの表情だ。もともとまなじりが下がり、眉が八の字に寄った困り顔のキホちゃんだが、この時の彼女はとにかく悲痛な表情で描かれている。最後の表情は決して穏やかではなく、ただただ痛ましかった。

 

しかしだからと言って、キホちゃんの人生が不幸だったわけではない。それはこのマンガを読み通せば分かることだ。ひとりの女とひとりの男が愛し合った固有の人生が確かに描かれている。

 

 

俺はおととし母を亡くした。このブログにも母の想い出を何度も書いた。しかしそれらの文章はせっかく読んでくれた人にとって結局《他人事》としてしか読まれなかったのではないか。今でもああやって書き連ねてきたことが正しかったのか分からない。ただ、書かずにはいられなかったことは確かだ。でも自分にとって「ほんとうに大切なこと」ならば、あんな風に書いてはならなかったのではないか。この圧倒的なマンガを読んだ後、そんなことを思った。

 

 

さよならもいわずに (ビームコミックス)

さよならもいわずに (ビームコミックス)

 

 

 

休肝日

電車で帰ってきて、自宅とは反対の方面にあるツタヤに寄ってマンガを借りる。宇治金時を食べるつもりが店先のベンチは親子で占められていたのでたい焼きを買う。駅前に戻ってスーパーで夕飯の買い物をする。帰り道で食べるためのアイスを物色する。食べたかったスイカバーがないので、代わりにシチリアレモン味のパピコを買った。八百屋にも寄っていろいろ買う。パピコを分け合い、食べながら歩いて帰る。日が当たって暑いから路地を通って帰ろうと言われたので賛同する。背中に西日が当たっていた。猛烈にというよりじわじわ暑い。商店街から脇道に入る。幾分暑さが和らぐ、口の中は爽やかな冷たいレモン味に満たされている。しかし、自宅に着くためにはやはり背中に西日を浴びなくてはならないので、結局また日射を背筋に受ける。こないだの「水曜日のダウンタウン」で「大人が本気出せば影だけ踏んで帰れる説」を実証するために芸人・あかつがまわし一丁で影だけを踏みしめながら帰宅していた。影のまったくない道に行き当たった彼は、通行人の影を踏むことで難を逃れていた(結局これはルール違反として以後禁じられた)。それを思い出した俺は、隣を歩いていた彼女の後ろに回り、自分の影の中に彼女を入れてやった。前を行く彼女がわざと首を右にかしげるので、それに合わせて俺も首を傾けた。振り返った彼女はいたずらっぽく笑った。ふたり一列になって小径を歩きながらパピコを食べるのは子供っぽくて楽しい。大きなリュックサックを背負った彼女の小ささがそう思わせるのか。車道を渡るとき、横並び戻った。自宅に着く前に、ふたりともパピコを食べ終わってしまう。彼女は眉を八の字にして悲しがってみせた。

家に着いたらすぐに水シャワーを浴び、なんやかやして、洗濯物を畳んだり干したりしつつ、ゆるふわギャングとか欅坂46YouTubeで聞いた。彼女はその間台所にいた。ワンルームに戻ってきた彼女は「あ!」と思い出してテレビを点ける。最近見ている大相撲が始まっていた。俺の好きな碧山の取組が終わったところだった。ケガをした宇良はあっさり負けてくれた。白鵬が大記録を樹立した7月21日は、夏休みみたいな1日だった。

 

今日は久しぶりに酒を飲んでいない。