ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

生きてます

転居やら取材やら原稿やらで、しっちゃかめっちゃかな1ヶ月だった。恋人との同棲が始まったり、猫との共棲がスタートしたり、素敵なことも多かったので、それに関する心の流れみたいなものを書いておきたかったけど、日々にかまけて疎かにしてしまった。

しかし、この生活をしているのは本当におれなんだろうか。

 

いま、おれはライターを名乗っています。とはいえ、それだけではまだまだこれっぽっちも食ってけない。仕事が欲しい。と思ってしまっている。去年のおれはこんな気持ちになるなんて、まったく想像していなかった。

 

恋人と暮らし始めたので、親からの仕送りはストップする。でもおれはずるいので、まだ父には同棲を始めたことは言ってない。夏に、「秋には同棲する」とは言った。でも同棲してるよとはまだ言ってない。

ただ、来月には前の家の家賃が引き落とされなくなるので、父は気づく。なので、今月が最後の仕送りだ。

おととし死んだ母の墓が、来月ようやく完成する。そのタイミングで帰省するので、その時おれは父親に「仕送りいままでありがとう」と言わなくてはならない。

 

今のおれを見たら、母はとても喜んでくれると思う。就活をやめ、母にうわごとのように語っていた将来像みたいなものに、いまのおれは近づいている。母が生きていたらきっと喜んでくれた。

 

転居のために部屋を片していたら、母からの手紙が見つかった。捨てたと思っていたのにあった。読んで、もちろん泣いた。久しぶりに、母のために流した涙だった。最近のおれはしあわせすぎて、母を悲しんでいなかった。

 

いま、おれは恋人が温めてくれたベッドの中に横たわり、腹のうえに猫の体重を感じながら、これを書いている。

 

猫のためにベッドを買ってやりたい。

この家には暖房器具がまだないので、早く買わないと凍えてしまう。

取材に使えるいいカメラが欲しい。

金が要る。

 

最近は、財布から金を出すのに痛みが伴う。発泡酒も1日1本になりました。昨日、安上がりだろうと思い、ウイスキーのボトルを買った。今日は、恋人が漬けた梅酒のお湯割りを飲ませてもらったし、ウイスキーをダブルで飲んだし、発泡酒も飲んだので、なんだかんだけっこう飲んでるな。

しかし眠気はなくて、少し高ぶっている。

 

恋人の連れ猫は無事に懐いてくれてとても嬉しい。

最近はおれが忙しくて(おれがせわしい!)恋人といっしょのタイミングで寝られないのが少し寂しい。いま住むアパートは2LDKもあるので(田舎なので家賃が安い)、おれがリビングで仕事をしていると、恋人は寝室に引っ込んで猫と寝てる。

 

ちょっと前までは、ワンルームで、恋人の寝息を聞きながらパソコンをかたかたしてたのだ。

恋人が寝ている寝室にこっそり入るのは少し楽しい。

 

きょうのこと

この秋から恋人と同居する。部屋の契約はもう済んでいる。今日は俺ひとりで鍵を受け取り、部屋を確認してきた。東京から離れてることもあって、家賃のわりに部屋数が多い、3DK。がゆえに、ベッドをどの部屋に置くべきか迷っている。入居は2週間後。

 

日の暮れかけた部屋は薄暗い。緑の山が西日で霞んでいる。月が浮かんでいる。感傷に浸る間もなく、部屋の寸法を測る。汗だくになる。恋人にLINEで逐一報告する。3部屋もあるが、どれも似たようなサイズだ。全体としては真四角な間取り。実家以外ではワンルームにしか住んだことがないので楽しみだ。

 

 

行きの電車ではナルコスを1話消化した。ひとつの家族が爆発に怯えるオープニングで、ひとつの家族が爆発で損なわれ放心するというエンディングだった。家族と社会、そして戦争について考える。

戦争においては、絶対正義な陣営は存在しないし、絶対的な悪もありえない。ことの発端に絶対正義や絶対悪があったとしても、複数人関わってしまえば、すべての社会事象は正義と悪の二元論では割り切れなくなる。俺はそう思う。俺は正義でも悪でもなく、凡庸で平凡な夫になりたい。

 

不動産屋で鍵を受け取る。入居してすぐに屋根の工事が始まるらしいので、それだけが残念。

 

部屋に行く前にビールを1缶買った。部屋でひとり感傷に浸ろうと思ったのだ。なんかセンチメンタルな曲でも聴きながらビールを飲もうとしていた。

しかし部屋の間取りを測ってる間に室内は真っ暗になってしまったし(何もない部屋が真っ暗だと恐い)、恋人の待つところへ早く帰りたいし、大森靖子ライブ配信も見たいし、ということで、そそくさと出てきてしまった。ビールは一息に飲み干してしまった。ちなみにBGMはくるりの「リバー」と「ハイウェイ」にしてみたけど、まったく気持ちにそぐわなかった。これから好きになる曲はこれまでとはまったく違うものになるかもしれない。感傷に浸りっ放しの人生だったが、これから先は、そうはいかない。「これから幸せしかやってこないのよ!大変なことになってしまうわよ、これからの私は」(©︎愛子さん)なので、感傷に用はない。

 

帰りの電車でこれを書いていた。今住んでる部屋の最寄駅から新居の最寄駅までは2本の電車を乗り継いで、1時間かかる。今ちょうど乗り換えた電車が出発したところ。

 

マルシンスパに行った。

劇場の扉の前に着くと、ちらほらと人が佇んでいた。2人組かひとりきりの人たちが10組くらい、年配の女性もいれば、若い男もいる。

「到着したら電話してください」とメールで言われていたので電話をかけた。立ち話をしていた女性が電話を耳元に当てたので、手を上げて合図した。あ、という顔をして電話を耳か外した女は、今日はありがとうございますと声をかけてきた。

 

チラシ挟み込みのバイトだった。むかし通っていた講座のメーリングリストは今でも生きていて、そこを経由して届いたバイトの依頼だった。3時間で4500円。悪くないと思った。

着いた時は気づかなかったが、佇んでいた人たちはみなチラシの挟み込みにやってきていた。いろんな所属からやってきた人間たちが、自分らの宣伝すべき演劇のチラシを挟み込むためにやってきているのだった。ああいう分厚いチラシの束は、劇場の人が準備してるもんだとばかり思っていた。それに、いまどきは機械でやってるものだとばかり思っていた。劇団とかイベントの会社の人間がせっせと挟み込んでいるのだった。

 

部屋の中には3つの島が長テーブルで作られていて、ひとつの島の上には12種類のチラシが2列並んでいる。合計7000枚くらいあると言っていた。25人くらいの人間がその列の前を横歩きしながらチラシを1枚ずつ取っていき、最後にアンケート用紙でその束をまとめる。12種類のチラシがあるから12の企業や団体から人が集まってきたのだろう。人手の出せなかったところがバイトを雇っているらしい。

 

せっせとチラシを挟み込む。初めてなので要領をつかむのに時間がかかる。チラシの左上をつまむか、下側をつまむかで迷う。結局のところ、どちらでも良かった。というか、どちらの取り方もしなくてはならなかった。延々同じ動きをするわけだから、少しでも体をリフレッシュさせるために、今回は左上からつまもうとか下側をつまんで引っこ抜こうとかする。変化が体を凝りから遠ざけてくれる。

左手で山から1枚だけチラシを取り、右手にストックする。それを12回繰り返すとひと束できる。束をアンケート用紙で挟む。それを繰り返す。

自分の島で渋滞が起こり始めたら、臨機応変に島を変える必要がある。どうしてもミスはつきもので、誰もがチラシを取るのに手間取ってしまうことはあるので、渋滞は必ず起こる。

 

作業が始まる前は考えごとでもしながらやろうと思っていたが、とても無理だった。雑念が入ると手の動きは鈍る。チラシの絵や写真に見入ってしまっても動作が遅くなる。無心に手と足を動かすしかなかった。だから、どんなイベントのビラがそこにあったのか、僕はほとんど覚えていない。渡辺えりの出演するステージがふたつあったことだけ、やけに覚えている。

 

作業は結局2時間を過ぎたところで終わった。バイト代は3500円とあいなった。特に誰とも話すことなく、劇場を後にした。

 

3500円を握りしめ、国道20号線を西に30分ほど歩いたところにある「天空のアジト マルシンスパ」に初めて行った。

エレベーターで10階へ上がり受付をする。ロッカールームで館内着に着替え、階段を上がったところに脱衣所がある。棚に館内着とタオル類を置いて、浴室に入る。

ここのサウナはセルフロウリュができる。初めてだ。誰もいないので、思うままにやる。ストーンに水をかける。ひしゃくの柄が熱い。

サウナを好むようになってまだ半年くらい。入ったサウナはまだ10個くらいだろうか。しかしここのは今までのどれよりも良かった。

ほどよい暑さなのに今まで入った他のどのサウナよりも汗がかける、いつまでもいられる。ここのサウナなら眠れると思った。テレビもないから静かで良い。初めてサウナ時計の針が一周するのを見届けた。メガネをかけて入ったのだが、フレームがとても熱くなったので、タオルに包んで太ももの上に置いていた。

水風呂は痺れる手前の冷たさ。地下からくみ上げているらしい水は季節によって水温が変わるらしいが、この日は18度くらいだっただろうか。ちょうど良かった。前に入った三軒茶屋の「駒の湯」の水風呂は手足が痺れて痛くなるほどの冷たさで、あれはあれで気持ちいいが、やっぱりいつまでも入っていられるくらいの水温の方が嬉しい。

脱衣所で水を飲み、浴室内のデッキチェアで休む。窓越しの夕空に都会の高層ビルとナビタイムのおじさんが見える。ビルの上ではクレーンが2機交差していた。

僕はそこで初めてととのった。脳みそがふわふわ浮いた。夏の終わりの夕方、うっとりとした眠気に襲われそれに逆らおうとする時の心地よさを何十倍にもした感じだった。

 

サウナ→水風呂→休憩をせっせと3周した。90分コースにしたので慌ててしまったのが悔やまれたが、初めてなのでこれくらいで良いだろう。3回目の休憩のタイミングで、初めて屋外の休憩所の存在に気づいた。外気浴ができる!急いで腰にタオルを巻き外に出る。眼下には駅のホームが見える。向かいにはビルもある。東京の街中で、ほとんど裸になってしまえるなんて最高ではないか。少し興奮した。マルシンスパの浴室は11階にあるので、風が強い。都会の風を素肌に受ける。何も考えられなくなる。都会の真ん中にいるのに思考を停止できるというのは、革命的に素晴らしい。都会は常に思考を求めてくるから。頭の悪い俺は都会にほとほと、疲れてしまった。

時間が来たので館内着に着替えて、コーヒー牛乳を買ってもう一度外に出て、一息に飲み干して受付に戻った。

 

「会計済ませても食堂は利用できるか?」と聞くと「少しくらい遅れても大丈夫っすよ」と言われたので、チャーシューとビールを飲む。f:id:massarassa:20170929004552j:image

チャーシューめちゃくちゃうまいんだけど量が多いので飽きた。

 

気持ちよくビルから出て、電車に乗って恋人の待つ部屋に帰った。

 

 

 

 

 

 

ちゃんと

USBメモリーを無くしてしまったので、作業ができず途方にくれている。このまま見つからなければ、再度データをもらわなくてはならない。クソだ。締切まで時間も少ないというのに。

 

昔からよくモノを無くす。この悪癖まったく直らない、直さない。そろそろ直さないと本当にとんでもないことになる。

無くしてもいいようにする、というのも手かもしれない。今回の場合、一度USBメモリーを挿入した時にデータをパソコン側にもコピーしておけば、こんなことにはならなかった。あの一手間を惜しんだから今とても困っている。「コピーしておこうかなあ」と迷ったのにやらなかった。馬鹿だ。

 

今、人生でいちばん忙しい。というか、同時並行でやらなくてはならないことが複数個ある。それは一般的には忙しいとは言わないのかもしれない、たいていの人にとっては常態だろう。俺が今テンパっているのは、いくつもの行為を同時にこなした経験が乏しいせいだと思う。仕事をしたことがないせいだ。

優先順位を付けなくてはいけない。スケジュール管理を覚えなくてはならない。

 

やがて俺は転居する。引っ越す、という言葉はなんだか縁起が良くない気がするので使わないようにしたい(口語では使っちゃうけど)。「引いて越える」ってなんだか都落ち感がある。まあ確かに都内から出るので「都落ち」と思われるかもしれない。でも俺たちにとってこれはスタートだ。とても気持ちの良い町で、人生を仕切り直す。《さらぴんの生活》(©︎鳥飼茜『おんなのいえ』)を始める。東京に住んで7年かかったしやっと始まったとこなんだ。

そのために今持ってる余計な荷物は捨てたい。余計な荷物を捨てちまえば、USBメモリーも見つかるかもしれない。大切なものがゴミに埋もれてしまってはいけない。ゴミにまみれていると、もしかしたら大切なものが埋まっているかもしれないと思い込んで、いつまでもゴミ漁りにかまけてしまうのも問題だ。大切なものはもうこの部屋にはないかもしれないのにね。

 

ちゃんとしなくては。

「ちゃんと」ってなんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

きょうのこと

六本木の大きなビルの一室で打ち合わせ。ロボットみたいな受付のお姉さんが部屋まで案内してくれた。お姉さん、と言ったけど、俺より年下なんだろうな。受付のお姉さんも、甲子園球児も、俺よりずっと大人に見える。お姉さんは視線は確かに俺の目に合っていたけど焦点が合っていなかったのでロボットに見えた。

打ち合わせ、11:00〜12:00と言われてて俺はてっきり「11時から12時までの間に来てください」ってことだと思ってたがしかし、家でシャワーを浴びながらひょっとして「11時から12時まで話しましょう」ってことだったのでは……と思い至り急いで家を出たけど間に合わなかった。案の定、オフィスの応接室を11時から12時まで押さえてくださってた、ので、大変な迷惑をかけてしまった。

 

打ち合わせを終えたらまっすぐ家に帰った。ケンタッキーで4ピースセットとコールスローとビスケットを買って帰り、『マスター・オブ・ゼロ』シーズン2の7話、8話を見ながらふたりで食べた。今のところシーズン2だとイタリア編と「ニューヨーク、アイラブユー」が好き。俺はニューヨークに一度も住まないまま人生を終えてしまっていいのか、とか最近思う。『マスター・オブ・ゼロ』と『A子さんの恋人』のせいです。でも、上京とは違って、ニューヨークはほんとうの目的がないと行っちゃいけないような気がしている。そういえばずうっと前にツイッターで昔から相互フォローしてる方が「ブログおもしろいね、ニューヨークに行ってみてよ」となぜだか言ってくれたことがある。なぜだったんだろう。

あ、あと、フランチェスカと良い雰囲気だったのにあと一歩踏み出せずタクシーで帰るデフの表情長回しもたまらんかった。

 

食休みしたあと、銭湯に行く。ここ最近銭湯に行ってなかったから鼻炎が悪化してるっぽくて、寝起きが悪かった。ここに来て「ひよっこ」を2連続見逃してる。俺が大学にまともに通えなかったのは、鼻炎、蓄のう症のせいだったんだと最近気づいた。あの倦怠感は尋常じゃない、まともには生きられない。銭湯は最高の加湿器、入る加湿器。最近の子供がアレルギー性鼻炎になりやすいのって、湯船に浸かったりする機会をシャワーとかに奪われているからではないか?テキトーなことを言っています。

銭湯は昼過ぎだったので老人が多かった。体を洗って疲れたのか、風呂椅子に座ったまま寝ている老人を3人見た。

 

銭湯から戻って支度をして再び六本木に舞い戻り、EXシアターでペトロールズ×ceroを見る。ペトロールズはそんなに知らなくて初めてライブ行ったんだけど、3人の歌声のハーモニーがことの外良かった。もっと長岡さんのワンマンなバンドだとばかり思い込んでいた。ハイハットの音が気持ちよかった。

cero、2015年末にイベントCLUB SNOOZERくるりとの対バン(だっけ?)以来だったんだけど、最高だった。あの頃よりずっとパワフルでエモーショナルでアンサンブルだった、まああの頃だって個人的にはくるりより断然好きだった。

マイ・ロスト・シティー」から始まったんだけど、あの曲の入ったアルバム、大学生の時ひとりで聴きまくってたのでひたすらにエモくなった。カラオケで歌うと必ず失敗するんだよなー。人前で歌ったことは多分ない。『Obscure Ride』も大学卒業後ひとりになってからずうっと部屋で聴いてた。小沢健二岡村靖幸パスピエ前野健太cero、そして大森靖子はひとりで聴いてたので思い入れが強い。洗濯物を干してた記憶が蘇る。洗濯干しながらこの6組のアーティストのどれかを必ず流してたんです。

cero見ながら、これが聞けるんなら今の日本に生きてて良かったわ、と思えた。冗談じゃなく。ニューヨークに、いなくても、いいや。ニューヨークに行ってやりたいことなんてひとつもないし。ニューヨークには銭湯もないだろうし。

『パターソン』感想文

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SHADES BAR、この店構えだけで完全勝利だった。ジム・ジャームッシュ『パターソン』はタイトル通りパターソンという名を持つ町と男が主役。

ニュージャージー州はパターソン、秋の町を路線バスが走る。運転手の名もパターソン(アダム・ドライバー)。「おかしな名前ね」と言われ、人生何百回目かの苦笑を浮かべる。生まれた町の名前を両親に付けられたのだろうか。

男は毎日バスを走らせながら、休憩時間などにはノートブックに詩を書き連ねる。彼はバスの運転手であり、詩人でもある。スマートフォンはもちろん、ケータイもパソコンも持たない彼はペンを走らせる。「縛られるような気がするから……」と言ってスマートフォンを持たないパターソンはしかし、パターソンの町中をバスでぐるぐる回っている。パターソンは、パターソンの町に縛られてる、と言ってはあまりに悲観的すぎるか?この映画にそういった悲愴は表立って描かれていない。

 

毎朝6時15分前後に自然と目を覚まし、隣で眠る妻にキスをして、ひとりベッドから立ち上がり、ダイニングで不味そうなシリアルを食べて出勤する。毎日毎日。
乗客の会話に耳を傾けながらバスを走らせる。昼食を取ったり詩作に耽ったり場所は、グレートフォールズを正面に望むベンチだ。このグレートフォールズ、産業革命の象徴らしい。落差23メートルの滝の威力が当時の産業を推進した。映画では多分そのことは特段語られてなかった。雄大な滝を前にして綴られる詩は、気に入ってるマッチのことや妻・ローラのことだったりする。
仕事が引けたらまっすぐ家に帰る。妻の作った飯を食う。エキセントリックでエキゾチックな彼女の作ったチーズと芽キャベツのパイ包みがまずいけど、パターソンは水で流し込んで食べてやる。不満は言わない。妻を悲しませることに勝る罪悪はこの世にないかのように彼は振る舞う。妻がギターが欲しいと言ったら本当は家計がきついのに「いいよ」と言ってしまう。ローラはカントリー歌手になってデビューできるかも、ナッシュビルに行けるかも、とか言ってる。自分にはもしかしたらとんでもない音楽の才能があるかも、とか言っちゃう。ローラはちょっと飛んじゃってる。パターソンが仕事に出ている間、彼女は部屋の白地の壁やカーテンに黒いペンキで円を描いている。ローラは白黒映画が好きだという。ダイニングにいるパターソンの背後には青や黄色に塗られた壁がある。パターソンがバスを走らせ、マーヴィンを連れて(連れられて?)歩く町にも季節の色彩は町の色彩は生きている。パターソンはローラの描く白黒の世界の円環から逃れたいのか?別にそんな切迫感もここでは特段描かれてはいない。


夕食の後、パターソンは飼い犬・マーヴィンを散歩させる。で、冒頭に掲げた“SHADES BAR”に入って一杯ひっかけて帰る。ローラは散歩から帰ってきたパターソンから漂うほのかなビールの匂いを気に入っている。
こんなルーティンを毎日繰り返している。いつからだか分からない。来る日も来る日もバスを走らせ、風変わりな妻と過ごし、ビールを飲んで寝る。

パターソンは「淡々とした日常」を描いているわりに不穏な劇伴が流れる。アダム・ドライバー演じるパターソンの心はあんな感じなんだろうか。言葉になる前の、わだかまりがなんとなくある。それを詩に表したいのだろうか。愛する妻の作るまずいパイを飲みこむ優しい彼が持つ詩情は実はあのグレートフォールズのようにたぎっているんだろうに、彼はそれをまだ形にできていない。
ローラは彼の詩を褒めるけれど、自分の詩に何かが足りないと彼自身がいちばん良くわかっている。偶然出会った少女の詩に心打たれ、その詩を覚えてしまう。自分にはない何かを感知している。彼は詩を愛するがゆえに、自分の詩が大した代物ではないことも知っている。
でも、パターソンは詩を読むのと同じくらい詩を書くことが好きだ。だから、彼は誰に読ませるためでもなく、詩で名を馳せようとするのでもなく、淡々と、言葉で白紙を埋めていく。詩を訥々と読み上げるアダム・ドライバーの声がたまらなく素敵。いかなる抑揚も排除して、綴られた文字をしっかり口に出すことだけに腐心している。この凡庸さが美しい。

 

クライマックスはパターソンのノートブックに刻まれた詩たちが永遠に失われてしまうところだ。失われた事実を前にパターソンはかなり動揺する。歌ってあげようか?というローラの斜め上な慰め方は観客にとっては笑えるけど、今回ばかりはそのチャーミングさもパターソンを慰めない。その後どうなるかってのは映画を見てほしい。

 

『パターソン』の魅力をどう言ったら良いのかわからなくて長々とあらすじを書いてしまった。この映画に出てくるあらゆる詩の価値とか良さってのは俺にはよく分からない。覚えてる一編とかもない。でも冒頭の“SHADES BAR”の店構えや店主ドクの佇まい、パターソンとローラの寝室、アップで捉えられたアダム・ドライバーの愛おしいはにかみ、交差点を曲がるバス、帰宅たびに傾ぐポスト、毎日現れる様々な双子、グレートフォールズの雄大……そういう光景の断片たちが脳裏に刻まれていることを思い出すと、心が満ち足りる。

 

この映画は「淡々とした日常の美しさ」みたいなのとはちょっと違うと思う。「淡々とした日常」に倦み、時にいらだつ我々も、詩的なまなざしを持つことでこれくらいの日常の鮮やかさを取り戻せるかもしれないという希望と、希望を守るためのささやかな苦闘がここにはあるように思えた。この映画の底流では常に日常の取り戻さんとする意志がたぎっていて、それがパターソンという町や男に深みを与えているのかもしれない。

 

失われてしまった町の活気。パターソンという町には多くのシリア移民がいるらしい (http://www.sankei.com/world/news/170527/wor1705270065-n1.html)。とあるサイトでこの町は全米で危険な町ベスト25にランクインしているのを見かけた。ニューヨークからそう遠くはないこの町も、かつては賑わっていたのだろう。あのグレートフォールズの力を借りて、人々は未来に邁進していたのだろう。しかし、あらゆるものは押し流されていく。諸行無常。だから人は書くし、読む。忘れないために書き、思い出すために読む。書き、読むためには、まなざしが必要だ。そのまなざしを『パターソン』は与えてくれる。

 

 

愛について(あなたの言い分しか信じません)

愛するとは信じること。愛してるから信じるんじゃない。「愛してる」は「信じてる」です。「信じてる」が「愛してる」とは限らないだろうけど。

 

愛する人が誰かに傷つけられたことを知れば、愛する人の言い分を100%信じる、信じてしまう。寄り添いたいと思う。支えてやりたいと思う。
その後の寄り添い方・支え方は人それぞれで、そこで過ちを犯すことはあるかもしれない。でも一度過ったくらいで、生まれた愛は消えない。なかったことにされてはいけない。

 

愛してる人のことを信じてるだけなのに「せめて両者の言い分も聞いてから判断しろよ」みたいなこと言ってるヤツがいるとバカ野郎!とののしりたくなる。極論、どっちが正しいかとか関係ない。愛してるものを信じてしまってるだけだ。

ただ、愛してる・信じてるからって何をしてもいいわけではない、でもそれは別の話。

 

我々は愛する人がいたり愛するものがあったりするから革命闘争をします。革命は権利を獲得するため、アイデンティティーを勝ち取るためにある。
革命と戦争は違う。戦争は奪うが、革命は生む。奪わないと得られないようなものにはあまり価値がない。
日常において戦争状態に置かれている俺たちは、エンターテイメントの中に革命を見る。革命途中に戦争を仕掛けてくるやつはクソだ。

 

みなそれぞれの信じ方で、闘っている。価値観がぶつかり、殴り合いになってしまうことはあるだろう。でも他人の信仰や愛を否定した場合は糾弾されてしかるべきだ。信じたり愛すること自体は自由だから。それは心の中のできごとだから否定してはいけない。

愛し方や信じ方があなたを傷つけたならもちろん怒っていいけど。


人の愛や信仰を揶揄したいのなら内輪のサークルでやればいい、絶対にバレない陰口で溜飲を下げてりゃいいだけの話だ。公の場で人の愛を否定してはいけない。

 

 

愛してもらえたから、信じてもらえたから、とことん報いる。過剰なまでに。それは傍目には異様に映るかもしれない。

しかし愛は直視しないと捉えられないのだ。愛のまなざしは第三者には分からないのだ。

愛は常に1対1だから、他の人間にはその愛の意味は分からない。

 

正直、俺は上に書いたような理念をこれっぽっちも体現できていない。でも現時点では、これが俺の理想だ。理想を信じ続けることができたら、少しずつでも成長できる。
「俺は成長できる」と自分を信じられるようになったから、いま俺が生きている。